や、そんなに高尚でも「かくかくしかじかである!」的な結論があるわけでもないんですがね。例によってオナニーエントリなのでその辺りはご了承ください。
ええとまず、仕事柄「パソコンが壊れたのでなんとかしてくれ」という依頼を多く受けます。そのために弊社があるようなわけなんで当然なんですが。で、たいてい「あー、これはもうダメですねー、買い換えましょう」という話に(やや意識的にw)持って行ったりします。その仕事が済んで「じゃあ古いパソコンどうします?」となったとき、さりげなく「もし不要ならば弊社が無料でお引き取りしますが」と言い添えるようにしています。
これはもちろん「修理・再生して新たに売る」ことも目論んでの提案なのではありますが、壊れてしまうようなPCは当然年式も古く、よほどの美品でないと他のお客様に使っていただくことはできません。それよりもむしろ、感情論として「今まで一生懸命ご主人様に尽くしてきたのに、壊れてしまったからと言って廃棄されてしまう機械が不憫でならない」という気持ちの方が、どちらかというと強いんですね。
実際、そうしてお引き取りしたPCは中古品として売ったという実績は今までのところなく、弊社のインフラ(設備)として余生を過ごしてもらっています。例えば、弊社のファイアウォールは12年前に発売されたパソコンを今も再利用して使っていますし、しばらく前まで寝床で使っていたノートPCは同じ機種の別の箇所が壊れたものを繋ぎあわせた「ニコイチPC」でした。
そういう心掛けのせいか、私自身が購入して使ってきたPCでパーツも含め、「壊れた」ものというのはほとんどありません。自分でいじったり、床に落としたりして「壊して」しまったものはいくらかありますが。自分のPCが壊れないでお客様のPCがいい感じに壊れてくれるのはなんとも都合のいいことではありますが、実際のところそうなんです。
逆もまた真なりで、これは実感としてあるんですが、故障する率が高いのはどちらかというとフラストレーションを感じながらパソコンを使っているお客様の方が多いような気がします。「人間の脳波が機械に影響する」なんてことはおよそ非科学的なのであまり言いたくないのですが、そんなこともあるんじゃないかと思うくらい感じます。
ええと、俺は何を言いたかったんだっけ。そうそう「愛とは何か」ということでした。
で、ですね、上の「機械も愛情を持って使えば応えてくれる」ということとも微妙に関連するんですが、じゃあもっと狭義な(人間に対する)「愛って何」ということについて考えてみたいんですね。
35にもなって独身でおりますと、さすがに周りが「結婚、結婚、ケッコン、コケコッコ・・・」とニワトリのように騒ぎ始めます。お察しの通り、同居している親からは「早く嫁さん見つけろ」と顔を合わせるたびに言われておりますし、友人・後輩からも同様です。
そこで、考えるんです。したり顔で私にかく申す彼ら自身は、奥さんに愛情を持って接しているのだろうかと。幸い、私の周りにいるやつらは生粋の日本男児でありまして、自分の細君を人前で褒めそやしたり、人目もはばからず抱擁したり接吻したりするような軽佻な輩はおりません。むしろ彼らの口をついて出てくるのは揃いも揃って「うちのヨメさんはさぁ、カクカクシカジカでほんと参るよ」という愚痴なんですね。最初はノロケのうちかと思っておりましたが、どうやら本気で悩んでいるらしい。「じゃあ結婚なんてしなければよかったじゃないか」と言いたくなるくらいの愚痴りようなんであります。
ではありますが、そこで私が「ああそうだよな、お前の奥さんはシカジカでほんと最悪だよな。いや全く同情するよ。」などと言おうものなら、流血沙汰の喧嘩になりかねないことは、いくら空気が読めない私でも重々承知しております。同情して不興を被るというのも奇妙な話ではありますが、これまた事実。
以上のことから、つらつら考えてみるに「愛(情)ってのは、算段(理屈)を超えた何か」なんだな、ってことです。なんか平凡なオチなんですけどもう少し説明します。
分かりやすいところで「子供に対する愛情」ってのを考えてみましょう。私にはもちろん子供はおりませんが、一応親というものがあり、人並みに育てられておりますので、親の愛情を受けた経験はあります。
では、親というものが「自分の子供はこれこれこういう長所がある一方でこういう短所もあって、でも総合的に考えて、長所の方が大きいからうちの子供はかわいい」といった計算をして子供を愛するものでしょうか? いや、絶対に違うと思います。世にもよく「できの悪い子ほどかわいい」と言われている通り、むしろ欠点があるからこそ愛情が増すということもあるのではないでしょうか。
「恋と愛の違い」なんてのも女子向け雑誌で話題になったりしますが、その違いというのもそんなところにあるんじゃないかと思います。つまり「恋」ってのは、相手の長所・美点「しか」見えていない状態。「私のカレって、背が高くって、イケメンで、お金持ってて〜」というアレです。ま、実際そう露骨にノロケることはないのかもしれませんが。w
あるいは、「◯◯マニア」「△△のファン・追っかけ」「□□オタク」に対する世間一般の冷めた見方の原因というのもそういうところに因を発するものかもしれません。つまり、「こいつら、こんなにモノ(あるいは他人である芸能人、アニメキャラなど架空の人物、etc…)に対して血筋を上げてるけど、本当はもっと愛情を注ぐべき対象があるんじゃないの?」という言葉にならない不信感です。その不信感というのももっともで、概してなんちゃらマニアはその対象の美点しか注目しません。つまり彼らの愛情は「説明可能」なのです。説明されてもその良さが「パンピー」にはわからないことは往々にしてありますが、とにかく本人には理由が分かっています。
私が壊れたパソコンを引き取るのは、それが「処理速度が速く、大容量で、消費電力も少なく、つまり私にとって素晴らしいものだから」ではないことは先程述べた通りです。もっと早くいうと、機械に対して人に対するのと同じような「人格」を見出していると言ったらいいでしょうか。
そこで鋭い方なら、「じゃあお前が飯の種にしているという『ソフトウェア』に対してはどうなんだ?」と問われるかもしれません。それは「いい質問ですねぇ。」 以下、ちょっと長くなりますが、私の言いたいところなのでだいぶ遠回りになりますが、お暇な方はおつきあいください。
面白いことに「プログラム(またはソフトウェア)を・・・」に続く述語は人それぞれでありまして、ある人は「作る」と言い、ある人は「組む」、またある人は「上げる」と言ったりします。私はそれらのどれも使わず、一貫して「書く」という言い方をしています。ここは結構こだわっているので例外はないと思います。
なぜそんな言い方にこだわっているかというと、将来どんなに開発ツールが進化しても、おそらくプログラミングの本質は「書く」ことに他ならないと思うからです。そして、書くというのは、(このブログもそうですが)本質的に「文字を並べて意味を成す」ことです。
世に新聞・雑誌・書籍・論文などいわゆる「書き物」の類は数多くありますが、それらは言うまでもなく「人間に」読まれることが前提で書かれています。ではプログラムは、というと、第一義的にはコンピュータに読まれることを前提としています。それは当然のことで、コンピュータが読んでくれないプログラムは動作せず、売り物にならないからです。ただ、一義的にはそうなんですが、では動作しているプログラムは書かれる人によって違いはないのか、というと、これはもう歴然とあるものなんです。書く人によっては「美し」くて「文学性」や「ユーモア」を感じることさえあります。
だから、私はプログラムを「書く」という言い方にこだわっています。「作る」や「組む」だと、物理的に機械を作っているようで(成果物はそれに近いんですが)あまり好きではありません。
さて、私にとっては「書き物」であるプログラム自体が愛情の対象にならないのは、ラブレターの書き手を思い焦がれることはあっても、その便箋自体を恋慕するわけではないのと同様です。プログラムを見て「こいつ頭おかしいだろ!」と毒づいたり、「うぉっ、クールな処理してんなー」というのは常にそれを書いた人に対してです。
なので、意外かもしれませんが、プログラムそれ自体に「人格」を見出すことはほとんどありません。あるとすれば、たいていは顔も知らないその書き手に対して同業者としての判断を下す、というところでしょうか。あるいはLinuxを作ったリーナス・トーバルズやRubyの生みの親のまつもとさんに対して、冗談まじりに「教祖」と崇めたりすることはありますが、それは「愛情」とはかなりかけ離れた感情です。
というわけで、今日の白熱教室では、人が何かを「愛する」というのは、その対象が「良いから」とか「素晴らしいから」といった「説明可能な理由を持つ」からだけではないということが見い出せたとても意義深いものになった。東京・上海そしてハーバードの君たちに感謝したい!ありがとう!