Category Archives: 雑考

最近更新が滞っていることの言い訳

とある人から「おまえのブログ更新してなくてムカつくんじゃ!」という旨のことを言われましたので、言い訳します。

社長始めたころに立ち上げたこのブログですが、最初はもちろん「誰がこんなもん読むんだろ」と思いながらも、あるときは批判的に、あるときは暴露的に、あるときは技術ネタ、あるときはほんとどうでもいい、くだらないことを思いの向くまま、気の向くままに書いておりました。昔は俺も若かった。

しかし、意外なことに、その後そこそこ読んでくれる人が増えてきました。数字を上げると、先月8月だけで10万PVあったらしい。チラ見としても熟読したとしても10万回、このくだらないブログにあるページが読まれたことになります。ブログ界では大した数字じゃないにしても、です。

それって結構やりづらいんですよ。実にやりづらい。ことに身近に読んでくれてる人がいるとなると余計です。

私としては、昔のように気楽に毒吐きたい書きたいのに、「あー、あの人が読んでるかもしれない」となると、つい遠慮も出て来る。結果毒にも薬にもならない、つまらんことしか書けなくて、じゃあ載せない方がいいや、と、下書き行きになる、というパターンです。

ので、最近はもっぱらFacebookに近況書いてます。それも最近は頻度落ちてますが。

他に差し迫った事情としては、「ブログだのFacebookやるなら他にやることあるだろ(゚Д゚)ゴルァ!!」というお叱りが飛んできそう、というのがあります。返事していないメール、電話、他、連絡体制がなってないわけで、結局は身から出たサビなんですがね・・・。

あとは、そうだなぁ、昔は何かについて自分の中で熟考する余裕があって、何か結論のようなものが得られたらそれを書く、ということもできたんですが、その余裕もなくなってきました。昔はヒマがあり余っていたものですが。

最近は、こんな私でもなかなか忙しくさせていただいておりまして、なかなか内省(?)する時間がなくなってきましたですね。小人閑居して不善を為す、になぞらえていえば、不善を為すほど閑居できなくなってきた、ということでしょうか。

とはいえ、やりたいことは山のようにあります。5月に買った3Dプリンタを完成させなきゃならないし、鴨川のブログポータルもリベンジしたいし、カブのカスタムもしたいし、愛車のボディ・バックドアをレストアしたいし、イギリスとフランスの友達にも会いに行きたいし(円安傾向が痛い)、FPGAだって極めたいし、挙げたらキリがありません。

それはおいても、結構自分のことは棚上げにしてやってるつもりなんだけどなぁ。わからん人にはわからんのかもしれないなぁ。

数は捨ててもっと楽しいことしようず!

数年前のことですが、川崎にかなり急に引っ越し、しばらく暮らしたことがあります。

で、半年も経たないうちに嫌になって帰ってきてしまったんですが、いや都会の生活ったら「数字と歯車」で社会が動いてることをほとほと思い知らされました。

「数字」というのは主には「お金」と「時間」です。毎日「ノルマ」という数に追われてる人もいましたし、「売上」は勤め先の経営者が一番気にしていた数のようでした。何をするにもお金がかかるし、食べ物でさえ、機械が作って出してきます。

あんな機械じかけの社会と温かみのない人間集団はもう嫌だ。背に腹を変えられぬのっぴきならない状況に追い込まれたら、涙をこらえていやいや行くかもしれませんが、俺は住むなら天津がいい。

ところでこの「お金」というもの、田舎の生活においてはそれほど大事じゃないんじゃないかと、最近思っています。そりゃもちろんあればあったでいいですけどね。

例えば、食べ物。

都会だと、スーパーなり食料品店でお金を出して「買う」ものです。外食するならさらに割高なお金で食事を買うわけです。なので当然お金が必要になる。だからみんな血眼になって働くわけです。

一方これが田舎ですと、食べ物は、必ずしも「買う」ものではありません。知り合いからいただいたり、その辺に生えていたり、下手をすると海からぶち上がってきたりするものです。もちろん貨幣を使って購買する場合もありますが。つまり、農耕・牧畜以前の狩猟・採集に近い段階だったりします。

テレビでグルメ番組とかやってますけど、「うぇぇ、たっけぇ金ぼりやがるなー」とか「これ金出して食う気にはなんっぺー」というのは私の周りではよく聞かれるコメントです。

そりゃまあ、「私はブランド品を着てないと生きていけないの」とか「俺は高級車以外は乗りたくない」とか「息子は絶対医者か弁護士にさせる」とかいう人には、田舎の生活をお勧めはしませんが、死なない程度に食べて行く分にはお金があまりなくても意外となんとかなるんじゃないでしょうかね。しかもだいたいにおいてその食べ物はうまいです。

ある年配の女性の知り合いがおっしゃるには「田舎だと『見栄代』がかからなくていい」んだそうです。見栄代とは聞き慣れない言葉だと思い意味を尋ねると、どうも都会では「必要不可欠ではない、ちょっとした贅沢」をしなければ済まないそうで、例えば腕時計だったり、旬の(割高な)食材だったり、綺麗な服だったり、というような出費がある、と。さもありなん、と思いましたね。

一方、貧困層と呼ばれる人たちも都会には多い。所得額が少ないってことなら田舎の住民はみんな貧困層になっちゃうでしょうけど、ただ都会の人たちに比べたら、暮らしぶりはずいぶん豊かなんじゃないかと思います。食べ物はうまいし、比較的時間は自由に使えるし。

そうそう、田舎には仕事がないから帰って来れない、ってみんな言いますけど、私に言わせれば、仕事は人から与えられるものではなく、自ら作ったり、発見したり、育てるものです。実際そう思ってこの9年やってきました。まあ成功というにはほど遠いですけど、おかげさまで飢えない程度には暮らせています。いや、実を言えば、ちょっとだけ余裕みたいなものができてきたかな。

娯楽についていえば、都会の娯楽なんてつまらないもんです。みんなでテーマパーク行って、みんなで映画みて、みんなでスタジアムでスポーツ観戦。お金を払って席を買って、他人がお膳立てしてくれたものを享受するだけ。そこには自主性のかけらさえなく、画一的この上もない。

そこへいくと田舎の娯楽は自由で独立的です。オフロードバイクで山の中を走り回る人もいるし、普段乗りのカブをちょこちょこいじる奴もいるし、ルアーでヒラメを狙う人もいるし、ラジコン飛行機に凝る人も、鹿やイノシシを狩る人もいます。お金をさほどかけずにできる遊びだって沢山ある。私の母など見ていると、磯やらたけのこがりに行くのは食料を手に入れるためというよりは、一種の狩猟的な楽しみで行っているようです。 で、酒の席なんかで振られれば、自分の話を開陳して場の肴にする、そういうのをこの辺りでは「やへぇやる」と言います。私などはまだまだ未熟でこれがうんまくやれねぇんですが、そういうのは「奴はやへぇのひとくさりもやらんねぇ」と馬鹿にされます。

3年前、アメリカに旅行に行って身をもって「地球は丸い」ということに気づきました。当たり前じゃないかと思うでしょうけど、それほど当たり前のことではないんです。つまり、誰かにとっての上は地球の反対側の人には下になる。上とか下とかってのは、せまい範囲で世の中を見ているからそう思うんであって、実際人間は人間、皆似たようなものなんです。都会にいる人たちはみんなが上を目指して競争してるように私には思えて、それはそれで結構だとも思いますけど、本当は人間に上下なんてないんじゃないでしょうかね。

技術があれば、お金を稼ぐだけでなく、節約することもできる。

ときどき、お金の発明というのは、人を本当に幸せにしてきたのだろうか、と疑問に思う高梨です。この要るときには必ずなくて、要らないときにはある(こともある)、不思議な数字の単位が元で生まれる不幸というのも少なくないはずです。

・・・と、ちょっと大げさな書き出しにしてしまいましたが、ま、ここからは軽くお金と技術について思うところを書いてみたいと思います。

Twitterのプロファイルでも「世界一儲かってないIT企業の社長」を自称してはばからない私ですが、世の中の皆さんと同じく、そりゃお金は欲しいです。「俺は金なんてどうでもいい」なんて言いません。

ではありますが、お金よりももっと大事にしたいと思っているのは「技術」です。技術って言ってしまうと硬い感じですけど、要するに「他の人の役に立つ自分であること」とでもいいましょうか。何かを作ること、直すこと、育てること、理解し応用すること、これみなひっくるめて、以下「技術」という言葉を使います。

ご存じの通り、最近私は変に乗り物づいておりまして、原付に飽き足らず、ここ数日は自動車の勉強まで始めているところです。まあもちろん「峠を攻める」とか「◯◯レースに出場を目指す」といった大それたものではなく、また、人様の御乗り物に手を出すつもりも全くなく、「自分が困らないため」にやっているわけです。カブの改造、じゃなかった、カスタムやメンテにしても、まあ自家塗装はちょっと挑戦しすぎた感はありましたが、あくまで「実用的」な路線を狙っているつもりです。

自分でカスタムやメンテナンスをやることは、それ自体楽しいことではあり、この年になってやっとそれがわかってきたような次第でもあるのですが、楽しみと同じくらい大きなメリットもあります。

そう、それが、この記事のタイトルでも言っている「お金を節約することもできる」なんですね。

例えば、わかりやすいところでいうと、エンジンオイルの交換。カブに乗り出したときは、買ったお店に頼んでやってもらっていたのですが、オイル代含めて、ホームセンターで買える一番高いオイルの約2倍のお金を払っていました。自動車のオイルもほぼそんな感じ。

これを、ぼっているとは口が裂けても言いません。自分にできないことをやってもらっているのですし、自分自身、他の人にできないことをやってお金をもらっている身分なわけですから。

がしかし。セコいと思われる向きもあるかもしれませんが、「もしこれが自分でできるようになったら?」と、別分野では一応技術者である私は、つい考えてしまうんですね。もともとがガソリン代を浮かせるためにカブに乗り始めたクチですから、なおさらそう思うんです。それに、あのドレンボルト抜いて、ドバーッと古いオイルを出す作業って、なんか楽しそうじゃないか? 第一、ンッンッコホン(咳払い)「この人にできて、俺にできない理由って何かあるわけ?」(あー言っちゃった― ・_・;)

もちろんプロに総合的な技術力で勝てるべくもありませんが、一つ、たった一つだけ、素人が有利な点があります。それは、

「自分の物だけ面倒を見られればいい」

ということ。私の場合ならカブとBbのドレンボルトの位置さえわかっていれば、オイル交換はできるのです。他の車種?知ったこっちゃないっすね。w

とはいえ、もちろん自分で何でもやろうとは思いません。車を電柱にぶつけてボディが減っこんだら板金屋さんのお世話になります。カブの前輪がロックして2回コケ、ロックする原因がわからなかったらバイク屋さん呼びます。実は、最近までタイヤの手組交換(ホイールごとじゃなく)を自前でやろうと思っていたのですが、「ホイールバランス」なる調整があることを知り、タイヤ屋さんに依頼することにしました。

カブに関しては経験積みましたから、現時点でできることを挙げれば

  • エンジンオイル交換
  • パンク修理
  • タイヤ・チューブ交換
  • フロント・リアスプロケット交換
  • チェーン交換
  • 全塗装(自己満足ですが)

と、まあ、なんかあっても大抵はなんとかなるんじゃないか、というくらいにはなりました。自分でなんとかできれば、業者にお金を払う必要もないわけで、ほら、技術でお金は節約できるんです。

本業の方でも同じことはもちろん言えます。素人さんなら、「パソコンが壊れた!」といって買い換えなければならないものを、私は故障した部分だけ直してすませることができます。それが仕事だから当たり前だけど。これにしても、まあ節約になってるとも言えます。

自画自賛過剰になってきたので、私にできないありふれた技術を挙げましょう。それはズバリ、「料理」です。正確に言えば、まあ、やってできなくは、ないです。必要な材料を買ってきて、切って、調理して、味付けして・・・ということはできます。ただ、冷蔵庫にある材料から何が作れるかを考えたり、手早く野菜を刻んだり、魚をおろしてさばいたり、うまい具合に煮付けたり、といったことが、できません。味付けも、なんかいつも今ひとつ足りない感があるんですよね。口に入れても不快ではないレベル、といったところでしょうか。ましてや凝った包丁使いなどは、とてもとてもおぼつきません。だから、一人暮らしのときはもっぱら外食やコンビニのお世話になってましたが、これは経済的な点では大いに損失でしたよね。

食については言ったので、衣・住に関していえば、実はちょっとした裁縫は得意です。というより、服飾というと女性の仕事のイメージが強いですが、あれはむしろ男性的な設計感覚が必要なんじゃないかなぁ、と思ってます。住といえば、掃除や収納?ですが、こっちはまあ私ほど無関心な人間もいないんじゃないでしょうか。w というより、むしろ散らかっていた方が落ち着くんですよ。実際、きれーーいに片付けられた部屋に案内されると、お尻がムズムズしてきちゃいます。

それにお金は、例えあり余っていたとしても、下手をすると目減りしたり(円安)、一定額までしか返って来なかったり(ペイオフ)、稼いだ先から国に踏んだくられたり(税金)、技術は、そんな心配は決してありません。もっとも「時代についていく」という努力はしなければなりませんが、だから、自分の好きなことを仕事にしてる人は強いと思うんですよね。(エヘン)

というわけで、プロレベルの技術だと自分で思うなら本業にしてそれでお金を稼ぎ、ちょっとした技術はお金を節約するのに使うのが、賢い生き方かもね、特に田舎では、というお話でした。

よしなしごとをとりとめもなく

こんばんは。栄えある2013年のしょっぱなから風邪引いて寝込んでしまっていた、病み上がりの高梨です。いやーこの風邪は喉が辛いわ。皆さんにおかれましても重々ご注意ください。

さて、今日は、あんまり結論やオチを出すことにこだわることなく、キーの向くまま、気の向くままにつらつらっと書きたいことを書いてみたいと思うんであります。読んでも何かの役に立つことは、まずないので、お暇な方だけお読みください。

パソコンやらスマホやらバイクやらユーモアやらが、ごった煮になっているのが私の頭の中なのは皆さんご存じの通りかと思います。中には小発明と呼べるようなものも、このブログで何度かご紹介したこともあります。

で、なんでわざわざそーいうことをしているのか、というと、これは自分で言うのもこっ恥ずかしいんですが、やっぱり「人の役に立ちたいから」なんですね。あ、もちろん「どう、俺様のアイデアすごくね?」という、ただの自慢したがりってのもあります。やっぱり人間ですから。

「ほら、こうすれば、この問題は解決できるじゃん!みんなやってみろって!」的な感覚を大事にしているつもりです、というかしています。技術屋って人種がブログをやったら、だいだいそういう傾向に落ち着くんじゃないでしょうかね。

実際、一応 世界で一番儲かってないIT企業である弊社でも、アクセスの統計を見てみると

search-word

こんな感じで、どっちかというと道楽でやっている、カブのカスタム関係でこのサイトを探しだしてくれているようです。弊社、そのうちバイク屋に転向するかもしれません。w

まあITにしろカブにしろ、皆さんから興味を持たれているのはそれはそれでよろしい。

でもね。

時々、こうも思うんです。「自分は『プラグマティズム』に堕していないか?」って。「プラグマティズム」なんて横文字使っちゃいましたが、要するに「目の前にあってすぐに役立つものに、価値を置き過ぎていないだろうか?」と、ちょっとだけ悩んでいるわけです。人から見たら近視眼的に映ることもあるでしょう。あるいはいい年をして、おもちゃ遊びをしているだけのガキっぽいやつ、と捉える向きもあるかもしれません。そうそう、機械いじりも最近は堂に入った感がありまして、先日は某旅館さんで、ラウンジ用の石油ファンヒーターと食膳用のエレベーターまで修理してしまいました。私に修理を頼む方も頼む方ですが、直すほうも少しは仕事選んだ方がいいような気がしています。w

ちょっと話がそれましたが、私ももう「若手」で通る年代ではなくなって来ました。社会的に見れば自分の家族がいて当然の年ですし、いろいろな場面で「後輩」の存在を意識せざるを得ない年回りです。こともあろうに(少なくとも表立っては)俺が「さん」づけで呼ばれるなんて!

プラグマティズムに「堕している」お前なら、さぞかし態度で「示しをつけ」ているんだろうからいいじゃないかって?それがそうじゃないから始末に悪いんですな。

今のところ、私のプラグマティズムは、第一義的には「自分のため」です、というより「先ず隗より始めよ」の精神ですね。「俺はこうやってみて、こういう結果を得た。もっと改良を重ねることもできるかもしれないし、このままでもまずまずの結果も得られる。やるやらないはご自由に」というスタンスです。そこには、特定の誰かのために働こうという奉仕の精神はありません。

・・・なんか、当初書きたいこととずれてきたな。ええと、そう「実利・功利を追いすぎてないか?」という悩みでしたね。

悩みと書きましたが、普段からこんなことを思い煩っているわけじゃないんですよ。むしろ「プラグマティストで何が悪い」を見得を切っているというのが本当のところです。

ですけど、たまにね、「理念を語ることも、それはそれで意味があるよな」とも思うんです。選挙中、声を枯らして演説している候補者の姿を見て「ウソばっかりつきやがって」「誰がやったっておんなじさ」と切り捨ててしまうのは、私の基準からしても、少々虚無主義にすぎる。

例出があまりよくなかったかもしれませんが、政治家にならずとも、社会を良くする方法はゴマンとあることは、技術者の端くれである私自身よく知っています。既成事実を作って、ほら、こうすればいいじゃん、スゴイだろ?便利だろ?もう後には戻れないだろ?と突っ走ってしまう「やっちまったもん勝ち」なやり方があることも知っています。

でも、相手が「社会」であることを考えると、もう少し説明的というか、ポーズでもいいから合意形成の過程は踏んどきましたくらいな態度は必要だと思うんですね。ああなんか言いたいことが見えてきた。

そう、でじゃあ皆さん一緒にやりましょうよ、とまでは行かなくとも、こんなことやろうと思ってますが、皆さんどうでしょうか?という「お伺い」を立てるにしても、やっぱり「理念を語る舌」は必要なんです。

いや、本当に必要なのかな。やっぱり技術屋は技術屋らしく、作ったものや腕で勝負すればいいんじゃないかな。

なんか自分でもよくわからなくなって来ましたが、病み上がりが抜けていないせいだと思います。今度はもう少しまともなこと書きます。

たまには、ちょっとだけ真面目な話を。

普段は冗談まじりに、いや、くだらない話の方がどちらかというと多いこのブログですが、書いておく必要があると思ったので、今日は少しだけ真面目に語ってみます。

最近、というかちょっと前から、いろいろなところでいろいろな人から、ある人との関係を指摘されます。「◯◯さんとは仲が悪いんですか?」「忍ちゃんのライバルの・・・」「仲良くしねぇばおいねぇ」などなど・・・。

まああれだけ批判的なことを(私が)書いているので、そう捉えられてもしかたないとも思いますし、やっていること、依って立つところが似ているので、ライバル関係にある、とも言えるでしょう。それに、今この時点で「感情として」好きか嫌いか、と問われれば、正直に言って後者なことは否めません。

ただ、それはきっと立ち位置が近いから、余計に相手のアラが目立つ、ということなのだと、頭ではわかっているつもりです。私としても「そうじゃぁないんだよなぁ・・・」という思いから書いているわけで、それは、件の人が重要と考えているものを私はそう思っていないし、逆もまた然りだからです。

それに、これは時々思うんですが、仮に対立が事実だったとして、それは一概に「悪いもの」と言えるでしょうか? 小泉さんが首相だったときに言っていましたが「競争なくして発展なし」。対立を起こさず、何かの改良や発展を望めればいいのですが、人間は怠惰なものなので、外部起因の危機感がないと現状維持に流れやすいものです。例えば、先の戦争がなかったら、現代の航空産業や自動車産業が有り得たでしょうか? そもそも、この記事を載せているインターネットというものでさえ、東西冷戦時、大型コンピュータの一局集中を核攻撃から防備するために生まれたという背景を持っています。

そんなものは物質的な価値にすぎない、大事なのは精神性だ、という向きもおられるかもしれません。殊に、「和をもって尊しとなす」この国で、人々の「繋がり」や「共感」「肯定」が叫ばれる昨今、「対立」という言葉は、心に少々緊張の音色をもって響きます。

ではありますが、あえて問いたい。社会や歴史を動かしてきたのは、いつの時代も「対立」であり「競争」であり「問題意識」ではなかったか、と。フランス革命は「貴族」対「平民」の、明治維新は「開国派」対「鎖国派」の、アメリカ南北戦争は「奴隷制容認派」対「奴隷制廃止派」の、それぞれ対立であったと、捉えることもできるでしょう。それぞれの結果が、常に良いものだったとは限りませんが、個人が自由に主義主張を表明できない社会が、この現代にあってさえ、どれだけ悲惨なものになるかは、私たち日本人なら、身近に知っているはずです。

私は、言葉を知らなかった幼いころ、「批判」という言葉を「評価」と同じ意味に捉えていました。つまり「誰それを批判する」というのは「誰それのことをほめる」という意味だと思っていたのです。字面からすれば、「批して判ずる」のですから、ほめることもあり、けなすこともあるだろう、と思っていました。それから程なくして「批判」というのは、一般t的には「反対の立場から言う」意味に使われていることを知りました。

私は批判はしていても、「陰口を叩いている」つもりはありません。意見を言うときには、私なりに正当と考える理由を挙げ、説明を加え、疑義を呈する、という手順を踏んでいるつもりです。もちろん、修辞的な表現をとることはあります。ただ、それは文章上の技術にすぎない。普段私が提供しているユーモアと同じ類のものです。

繰り返しますが、私は私、彼は彼です。立ち位置は非常に近く、共感できるところもないわけではありません。が、今の時点では、主に思想の違いから協力体制を敷くことは私はできない。もしかしたら、一転賛成派に転ずる可能性も否定しませんが、今のところその予定はありません。

ソーシャルメディアの使い分け

ブログを始める前は「自分の日記をネットに晒して何が楽しい?」Twitterを始める前は「他人の食ったメシなんざ知ったこっちゃねーよw」と思っていた高梨です。先ほどのスマホアプリエントリに引き続いての連投失礼します。

さて、商売柄、話題になっているネット上のサービスにはいち早くアカウントを作り、チェックすることにしています。ただ、ソーシャルメディア系のサービスは、実際の知り合いがやってないと全く興味を持てませんので

アカ作成!(・∀・)

2、3年放置(´・ω・`)

日本でブーム キタ━(゜∀゜)━!

そろそろ俺も本腰入れてやってみるか(`・ω・´)

というパターンになることが多いです。実際、TwitterやFacebookはそうでした。

ただ、日本で流行り始めたはいいものの、じゃあどうやって使ったらいいんだ?というところは皆さん考えるところだと思います。しかも最近ではGoogle PlusやTumblrなるものも出てきていますし・・・。

というわけで、私は

  • このくだらない社長ブログw
  • Twitter
  • Facebook
  • Google Plus

を主に使っているのですが、それぞれの使い分けかたをご紹介したいと思います。

ブログ

今、若い芸能人なら大抵やっていますよね。私も有名になりたい、というよりは、ITで起業するならブログくらいやっとかないと、と思い始めました。その割に更新少なくてすいません。(ーー;

それ以来6年に渡ってやってわかったのは、ブログというのは基本的に「個人」向けの発信ツールだ、ということです。私も基本一人でこのブログを書いているわけですが、例えばこれが大企業とは言わないまでも、10人以上の意思決定権者がいるような組織とか、複数人によって運営されるような組織であったら、おそらく面白いブログを作ることは難しい、できたとしても「最新の企業情報の更新」にしかならないでしょう。何を言いたいかというと、書かれている内容もさることながら「誰がそれを書いているか」ということも大変重要なのです。そして、何を書くべきか実効性高く判断できるのは、個人の頭の中だけではないか、と。例えば週一回ミーティングを開き、今回の記事は何にするか、を話しあって決め、皆で原稿を持ちあって突き合わせ・・・という作業はコストが高いだけでなく、「誰が書いているか」が見えにくくなってしまう。なので、ブログを一人で書くことは重要なのだと思います。

最初は私も「誰がこんなブログ読むんだろう」と思っていましたが、地域の方だけのみならず、国内はおろか世界各地からアクセスがあるようになりました。だいたいの方から「面白い」という反応をいただいているので、そうなんだろうと思っています。まあつまらなきゃ読まなくなるだけで、わざわざ「お前のブログつまんねーからやめろ」と言ってくれる人はむしろ親切なのかもしれませんが。w

ただ、これも私が起業して「社長」になったから始めたので、もしどこかの会社の会社員になっていたら、きっとやっていなかったと思いますし、どういう視点から書くか、ということも決まりがつかなかったと思います。

ですので、もしこれからブログを始めたいという方がいたら

  • どのようなスタンス(立場)から
  • 誰に向けて書くか

ということを想定した上で始めることを想定します。ユニークな記事であれば、同じ嗜好を持つ人が検索エンジンから探しだしてくれるでしょうから、読者を集めることは今ならさほど難しくないと思います。

Twitter

Twitterが海外で有名になった当時、私もアカウント作ったんですが、長らく放置していました。私の実際の知人のみならず、フォローしたい人さえもいなかったからです。が、確か3年前の稲荷様でS先輩が「忍、Twitterが面白ぇぞ」と言ったのを聞き、この人がやっているなら他の人もやっているだろうと思い、積極的に使うようになりました。

今、私のフォロワーは1,300を越え、タイムラインは矢の如く流れていきます。とてもじゃありませんが、全部追いきれません。たまーに読みたい人のリストをチェックするくらいで、後は自分からの発信です。

書いていることは基本的にITにまつわることですが、たまにこんな感じ↓で「高梨の房州弁講座」をやったりしていますw (クリックで拡大)

これ、突発的にやっていますが、なかなかウケがよく、たいてい反応もらえます。

正直な所、Twitterに限らず、ネットに「むくり」(今起きた)とか、「今日のランチはこれ!(写真付き)」とか書いても、はっきり言って

ネット帯域・資源の無駄

だと思うんです。それを流して何の意味があるんだ、と。どうせ書くなら思想とまでは言わないまでも、何か人の役に立つこと書けよな、と思います。まあそれで「おはよう」とか「おいしそう!」と言ってもらえるのが嬉しいんならどうぞ、という感じですが。

あと、現実的に役立つ使い方としては、防災情報をツイートしている人やボットがありますから、それらをフォローしておくといいかもしれません。

Facebook

Facebookを始めようと思ったのは、「外人さんと絡みたかった」からでした。w といっても、フランス人の彼女を作りたいとかそういう話ではなく、田舎に住んでおりますと英語を話す機会がなかなかないので、自分の英語力を保つために、という意味です。誤解無きよう。

そういう動機で始めたFacebookですが、Twitterのつぶやきをウォールに流すようにし、日本人の知り合いも増え・・・といった感じで使っていたら、もうすっかり日本語しか使わなくなってしまいました。たまに海外の友人と英語でチャットするくらいです。

おおっぴらにTwitterには書けないような、知人だけに知ってほしいことを書きこむようにしています。Twitterともリンクしているので、それにFacebokで反応をもらうこともあります。

あと、個人的に取り組んでいるのは、「地域を勝手にデータ化しちゃうぞプロジェクト」です。例えば、カ◯ンズの店内配置図や、愛用している図書館のデータを再構築して載せたりしています。

Google Plus

Facebookでは果たせなかった「外人さんとの絡み」は、主にこちらでしています。書いている内容は、ガチなギークネタwww 日本人ユーザはまだまだ少ないので、今のところは英語で書いた方がいいメディアかもしれません。

このブログでも発表した車載カーステをiPod用に改造したやつとか、中古無線LANルータを改造してネットラジオ専用機にするアイデアとか、親父がテレビ消さないまま寝たときに自動でオフになるスイッチとか、どちらかというとハードウェア寄りの話題が中心です。ご存じの通り本業はソフト屋なんですが、「こんなの考えたけどどう?」というノリで書き込むと、知らない人からアドバイスがもらえたり+1されたりと、反応があるので面白い。まあ、そうそう面白いネタを考えつくわけでもないですし、英語で書くのもそれなりにしんどいので、更新は少なめです。

 

・・・と言った感じで、このブログ以外にもいろいろな情報発信をしています。特にTwitterを始めると、自分の考えていることを始終細切れにアウトプットするクセがつくので、なかなかまとまってブログを書く気が起きません。なので、ここのところ更新が滞っておりました。

どのメディアをどう使うかはあなた次第!この記事が参考になれば幸いです。

何かに熱中できるとしたら、それはきっとすごくラッキーだよね。

こんばんは。自分の趣味の延長で仕事をしているもので、普段あまり仕事がつまらないとか、キツイとか思わずに済んでいる高梨です。今回は公共のネットに憚ることなく大自慢しちゃいますので、お暇な方だけお読みください。w

さて、こういう仕事をしておりますと、ときどき「そんなにお詳しいんなら、専門の学校を出られたんでしょうね?」と言われることがあります。このブログをお読みの皆様ならご承知でしょうが、私は情報工学系の専門学科の出ではありません。

また、英語圏の外国人と話していると、「お前がそうやって英語を操れることが信じられない(驚きだ・日本人じゃないみたい、などなど)」と、ほとんど会う人ごとに、と言っていいほど驚かれます。が、これも英会話学校に通ったわけでも、留学や海外在住していたわけでもないことは、やはり皆様ならご存じでしょう。受けた教育といえば中学・高校・大学の10年間くらいのもので、あまり特殊なものではないと言えると思います。(なので、昨今の英語の早期教育の風潮に疑問なのです。実感として中学から始めても充分だと思っているので。)

ただし、コンピュータと英語は、それこそ家族に呆れられるくらい(特に前者は)、熱烈に「モノにしたい」と思ってはいました。なぜかというと、どちらも、若かった当時の私にとって将来役に立つことはわかりきっていたことでしたし、自分の好みにも合っていたからです。

誤解する人がいるかもしれないので大急ぎで付け加えますが、それは何も私に「先見の明があった」からでは断じてありません。そんなものが本当にあったら今頃もう少しマシな暮らしをしているでしょう。w どちらかというと「それくらいしかできなかった」というのが本人の実感です。

その実感というのはある程度真実でして、例えばこれをお読みの方には既婚者も多いと想いますが、私は未だに独身で、もちろん子供もおりません。自分の住んでいる家を自分で建てたかって? まさか! この歳になって住まいはおろか、炊事洗濯家事親父まで面倒を見てもらっている身分です。独身貴族なら、彼女はどうか? これも否と答えざるを得ません。

・・・などなどと考えると、「高梨は英語とパソコンには詳しいかもしれないけど、彼女もいない哀れなやつ」と思えてくるでしょう。実際そうなんですから否定のしようもありませんが、ここで申し上げたいのはそういうことではないのです。

むしろ、私はかろうじて英語(という外国語)とコンピュータを「モノにできた(と少なくとも自分では思える)」から、 ラッキーな方だと思うのです。

例えば、かくのごとく「頭がよさげ」なことを自慢している私ですが、知的分野に限ったとしても苦手なことのリストは以下のような有様です。

  • 数学全般 (やっとこすっとこ基本的な微分積分ができる程度)
  • 碁・将棋・などのいわゆるテーブルゲーム (小学校以来、無勝の実績あり)
  • テレビゲーム (苦手というより興味がわかない)
  • 道を覚えること (地図は読めるんですが、その上で間違う)
  • 数独・クロスワードパズルの類 (若い頃は好きだったが、今は面倒くさすぎる)
  • 何かモノを作ること (親父からは「ぶきっちょ」と度々呼ばれています)

本当はこれに「歴史の勉強」と付け加えたかったのですが、最近になって(外国の)歴史モノ小説の面白さがわかって来たので、割愛しました。

だいたい上のリストを見ると「理系」なことが不得意な感じを受けるでしょうが、それを言ってしまうとコンピュータ屋として立場がないので、自分では言いません。w また、「運動・スポーツ一般」と「女性との交際」は一般的には知的分野とは呼ばれておりませんので、やはり除外しています。

というわけで、外国語とコンピュータはたまたま私の適性に合っていただけの話で、それさえモノにできなかったら今頃どうしていただろうか、と恐ろしくなることさえあります。実際、方向音痴が治るんだったら、頭の中にある英単語100個と引換えにしても惜しくはないですね。

ただ、冒頭でも申し上げた通り、私はコンピュータというものがやはり好きで、それこそICサイズのものからクラウドまで使いこなし言うことを聞かせることをメシの種にしており、自分の好きなことを仕事にできているというのはものすごく幸せだよなあと思うんです。あまつさえ、この3日ほどお客様から「お前が地元にいて何かあるとすぐ来てくれるから本当に助かるよ」という旨のお言葉をいただいたところですし。

だから、若い人が職業を選ぶにあたって、ぜひ考えに入れていただきたいのは、それが「自分のやりたいことか」と「人から感謝されることか」の二つです。もしその二つをクリアできているなら、それはやる価値がきっとあります。あ、あともちろん他にも「儲かりそうか」もあります。w 「他にやっている人がいない」とか「ダサい・カッコ悪い」とかはあんまり考えなくていいんじゃないかな。(むしろそれらはチャンスなんじゃないかとも思います。)

成人式とかセンター試験の季節になったので、またくだらないことをと思いつつ書いてしまいました。参考にしていただければ幸いです。

そんなもんなら10年も100年も2000年も前からあるYO! (・∀・)ニヤニヤ

英語はなんとか話せるのに、横文字(カタカナ語)にはめっきり弱い高梨です。つい最近まで「コンデジ」のことを「コンシューマー・デジカメ」だと思っていました。orz

さて、その私以上に横文字に弱い親父とNHKを見ていたとき、こんな質問をされました。「この人はコミュニティ、コミュニティって言ってっけんが、コミュニティっちゃあんだえ(何だい)?」コミュニ「チー」と言わなかったところは、我が親ながら褒めてあげたい。w

で、「んー、まあわかりやすく言うなら、『近所付き合い』とか『仲間』ってことかな。天津なら天津の、仲宿なら仲宿の近所、みたいな」と答えました。(これが正しい答えかはツッコミ不要)

ただ、そこでハタと思ったんです。私たちはどうも昔からあるものを新しい名前で呼ぶことだけで何かを得たような気になっていないだろうか、と。特にアーリーアダプタ、天津弁でいえば「ニイモン好き」な人にこの傾向があるような気がしてなりません。

いや実際私が飯を食っている業界なんてその最たるものでして、VPS→IaaS、NFS→ファイルサーバ→NAS→パーソナルクラウド(?)なんて本質的には何も変わらないのに、あたかも革新的な新製品のように呼び方だけを変えたりしています。営業な人に言わせれば「その方が売れる」からなんでしょうが。

千葉で働いていた当時、とある企業の企画会議の末席に加えていただいたことがあるのですが、正直に申し上げて、私としてはあまりなじめませんでした。というのは、私以外の人たちは何か斬新な着想をその会議で得た!と大喜びしているようなのですが、私は「え!?それって孫子が言ってたことだよね?」「そんなことなら孔子も言ってたよね?」と内心で感じることがしばしばあったからです。つまり私からすると、彼らがあまりにも不勉強に見えたのでした。いや、もしかするとみんな内心では私と同じように感じていて、でも場の空気や社内的な政治事情を計算して喜んでいるフリをしていたのかもしれない。まあきっとそれは勘ぐり過ぎでしょうけど。

最近何かの本で読んで思わず笑ってしまったのですが、アメリカのある大学教授の調査によると「貧困層の収入が増加するにつれて、彼らはより社会的・文化的な生活を送る傾向を示す」という結果を得られたそうです。わざわざそういうことを大真面目に調査・研究しなければわからなかったことに呆れて笑ってしまったので、そんなことなら「衣食足りて礼節を知る」と3,000年近く前に斉の管仲が言っていたことです。ちょっと前の日本人なら「斉の管仲」は知らなくても、誰でもこの言葉を知っていたでしょう。

私が「ああ、この人は『常識』がないなぁ」と思うのは、そういうときなのでありまして、何も世間一般と比べてやや変わっているとか、想定外の行動をする人に対してではありません。それは個性や特徴のうちなのであって、誰だってそれぞれ人とは違っているものです。

ましてや諸行無常の人間社会において、何かが「絶対」ということはありません。最近は、冒頭に挙げた「コミュニティ」の時代なんだそうですが、そんなものなら天津にだって昔からあったので、ただそれを「コミュニティ」なんて横文字で呼んでいなかっただけのことです。

今ふと思ったのですが、こうした代替語(新語とは敢えて言いません)を使うことには、使う本人に取って一つの利点があるようです。それは「場の流れを一瞬止めさせる」効果です。何か聞き慣れない言葉を耳にしたら、普通は「ん?なんだって?」と耳をそばだて、次に「それはどういう意味だろう」と文脈から類推しようとします。それでもわからなかったら「あの、すみません、今おっしゃった◯◯というのは、どういった意味でしょうか?」とへりくだって尋ねるでしょう。その間にも話し手はどんどん話を進められるわけで、それだけ優位に立てることになります……

あれ?私としたことが、なんだかジジイのような主張になってしまったでしょうか?私は新しい物を受け入れることのできない、頑迷な老害オッサンになってしまったのでしょうか?いや、たぶん、「新しい考え方やモノを受け入れること」と「昔からあるものにヨコモジ(または似非四字熟語)の名札を付けて呼ぶこと」とは、全く別のことなのだと思います。その見極めは時に非常に難しいものですが、それをしないと、読み・聞きかじった言葉を垂れ流す「九官鳥人間」に堕してしまいかねませんから。

人肌寂しくなってきたので、ふと「愛とは何か」なんてことを語っちゃってみたりする。

や、そんなに高尚でも「かくかくしかじかである!」的な結論があるわけでもないんですがね。例によってオナニーエントリなのでその辺りはご了承ください。

ええとまず、仕事柄「パソコンが壊れたのでなんとかしてくれ」という依頼を多く受けます。そのために弊社があるようなわけなんで当然なんですが。で、たいてい「あー、これはもうダメですねー、買い換えましょう」という話に(やや意識的にw)持って行ったりします。その仕事が済んで「じゃあ古いパソコンどうします?」となったとき、さりげなく「もし不要ならば弊社が無料でお引き取りしますが」と言い添えるようにしています。

これはもちろん「修理・再生して新たに売る」ことも目論んでの提案なのではありますが、壊れてしまうようなPCは当然年式も古く、よほどの美品でないと他のお客様に使っていただくことはできません。それよりもむしろ、感情論として「今まで一生懸命ご主人様に尽くしてきたのに、壊れてしまったからと言って廃棄されてしまう機械が不憫でならない」という気持ちの方が、どちらかというと強いんですね。

実際、そうしてお引き取りしたPCは中古品として売ったという実績は今までのところなく、弊社のインフラ(設備)として余生を過ごしてもらっています。例えば、弊社のファイアウォールは12年前に発売されたパソコンを今も再利用して使っていますし、しばらく前まで寝床で使っていたノートPCは同じ機種の別の箇所が壊れたものを繋ぎあわせた「ニコイチPC」でした。

そういう心掛けのせいか、私自身が購入して使ってきたPCでパーツも含め、「壊れた」ものというのはほとんどありません。自分でいじったり、床に落としたりして「壊して」しまったものはいくらかありますが。自分のPCが壊れないでお客様のPCがいい感じに壊れてくれるのはなんとも都合のいいことではありますが、実際のところそうなんです。

逆もまた真なりで、これは実感としてあるんですが、故障する率が高いのはどちらかというとフラストレーションを感じながらパソコンを使っているお客様の方が多いような気がします。「人間の脳波が機械に影響する」なんてことはおよそ非科学的なのであまり言いたくないのですが、そんなこともあるんじゃないかと思うくらい感じます。

ええと、俺は何を言いたかったんだっけ。そうそう「愛とは何か」ということでした。

で、ですね、上の「機械も愛情を持って使えば応えてくれる」ということとも微妙に関連するんですが、じゃあもっと狭義な(人間に対する)「愛って何」ということについて考えてみたいんですね。

35にもなって独身でおりますと、さすがに周りが「結婚、結婚、ケッコン、コケコッコ・・・」とニワトリのように騒ぎ始めます。お察しの通り、同居している親からは「早く嫁さん見つけろ」と顔を合わせるたびに言われておりますし、友人・後輩からも同様です。

そこで、考えるんです。したり顔で私にかく申す彼ら自身は、奥さんに愛情を持って接しているのだろうかと。幸い、私の周りにいるやつらは生粋の日本男児でありまして、自分の細君を人前で褒めそやしたり、人目もはばからず抱擁したり接吻したりするような軽佻な輩はおりません。むしろ彼らの口をついて出てくるのは揃いも揃って「うちのヨメさんはさぁ、カクカクシカジカでほんと参るよ」という愚痴なんですね。最初はノロケのうちかと思っておりましたが、どうやら本気で悩んでいるらしい。「じゃあ結婚なんてしなければよかったじゃないか」と言いたくなるくらいの愚痴りようなんであります。

ではありますが、そこで私が「ああそうだよな、お前の奥さんはシカジカでほんと最悪だよな。いや全く同情するよ。」などと言おうものなら、流血沙汰の喧嘩になりかねないことは、いくら空気が読めない私でも重々承知しております。同情して不興を被るというのも奇妙な話ではありますが、これまた事実。

以上のことから、つらつら考えてみるに「愛(情)ってのは、算段(理屈)を超えた何か」なんだな、ってことです。なんか平凡なオチなんですけどもう少し説明します。

分かりやすいところで「子供に対する愛情」ってのを考えてみましょう。私にはもちろん子供はおりませんが、一応親というものがあり、人並みに育てられておりますので、親の愛情を受けた経験はあります。

では、親というものが「自分の子供はこれこれこういう長所がある一方でこういう短所もあって、でも総合的に考えて、長所の方が大きいからうちの子供はかわいい」といった計算をして子供を愛するものでしょうか? いや、絶対に違うと思います。世にもよく「できの悪い子ほどかわいい」と言われている通り、むしろ欠点があるからこそ愛情が増すということもあるのではないでしょうか。

「恋と愛の違い」なんてのも女子向け雑誌で話題になったりしますが、その違いというのもそんなところにあるんじゃないかと思います。つまり「恋」ってのは、相手の長所・美点「しか」見えていない状態。「私のカレって、背が高くって、イケメンで、お金持ってて〜」というアレです。ま、実際そう露骨にノロケることはないのかもしれませんが。w

あるいは、「◯◯マニア」「△△のファン・追っかけ」「□□オタク」に対する世間一般の冷めた見方の原因というのもそういうところに因を発するものかもしれません。つまり、「こいつら、こんなにモノ(あるいは他人である芸能人、アニメキャラなど架空の人物、etc…)に対して血筋を上げてるけど、本当はもっと愛情を注ぐべき対象があるんじゃないの?」という言葉にならない不信感です。その不信感というのももっともで、概してなんちゃらマニアはその対象の美点しか注目しません。つまり彼らの愛情は「説明可能」なのです。説明されてもその良さが「パンピー」にはわからないことは往々にしてありますが、とにかく本人には理由が分かっています。

私が壊れたパソコンを引き取るのは、それが「処理速度が速く、大容量で、消費電力も少なく、つまり私にとって素晴らしいものだから」ではないことは先程述べた通りです。もっと早くいうと、機械に対して人に対するのと同じような「人格」を見出していると言ったらいいでしょうか。

そこで鋭い方なら、「じゃあお前が飯の種にしているという『ソフトウェア』に対してはどうなんだ?」と問われるかもしれません。それは「いい質問ですねぇ。」 以下、ちょっと長くなりますが、私の言いたいところなのでだいぶ遠回りになりますが、お暇な方はおつきあいください。

面白いことに「プログラム(またはソフトウェア)を・・・」に続く述語は人それぞれでありまして、ある人は「作る」と言い、ある人は「組む」、またある人は「上げる」と言ったりします。私はそれらのどれも使わず、一貫して「書く」という言い方をしています。ここは結構こだわっているので例外はないと思います。

なぜそんな言い方にこだわっているかというと、将来どんなに開発ツールが進化しても、おそらくプログラミングの本質は「書く」ことに他ならないと思うからです。そして、書くというのは、(このブログもそうですが)本質的に「文字を並べて意味を成す」ことです。

世に新聞・雑誌・書籍・論文などいわゆる「書き物」の類は数多くありますが、それらは言うまでもなく「人間に」読まれることが前提で書かれています。ではプログラムは、というと、第一義的にはコンピュータに読まれることを前提としています。それは当然のことで、コンピュータが読んでくれないプログラムは動作せず、売り物にならないからです。ただ、一義的にはそうなんですが、では動作しているプログラムは書かれる人によって違いはないのか、というと、これはもう歴然とあるものなんです。書く人によっては「美し」くて「文学性」や「ユーモア」を感じることさえあります。

だから、私はプログラムを「書く」という言い方にこだわっています。「作る」や「組む」だと、物理的に機械を作っているようで(成果物はそれに近いんですが)あまり好きではありません。

さて、私にとっては「書き物」であるプログラム自体が愛情の対象にならないのは、ラブレターの書き手を思い焦がれることはあっても、その便箋自体を恋慕するわけではないのと同様です。プログラムを見て「こいつ頭おかしいだろ!」と毒づいたり、「うぉっ、クールな処理してんなー」というのは常にそれを書いた人に対してです。

なので、意外かもしれませんが、プログラムそれ自体に「人格」を見出すことはほとんどありません。あるとすれば、たいていは顔も知らないその書き手に対して同業者としての判断を下す、というところでしょうか。あるいはLinuxを作ったリーナス・トーバルズやRubyの生みの親のまつもとさんに対して、冗談まじりに「教祖」と崇めたりすることはありますが、それは「愛情」とはかなりかけ離れた感情です。

というわけで、今日の白熱教室では、人が何かを「愛する」というのは、その対象が「良いから」とか「素晴らしいから」といった「説明可能な理由を持つ」からだけではないということが見い出せたとても意義深いものになった。東京・上海そしてハーバードの君たちに感謝したい!ありがとう!

はらいたまえ。 おお、かみよ! なんまいだー?

このブログをお読みの皆さんはご存じかと思いますが、「宗教」および「宗教らしきもの」に対して、今までは少なからずアンチの立場をとっておりました。主な理由は二つあり、一つはアイザック・アシモフやリチャード・ドーキンスといった筋金入りの無神論者に共感を感じていたからで、もう一つは、 ( 身 の 危 険 を 感 じ る の で 割 愛 w )だからです。

がしかし、最近そういった見方を変えなければならないかもしれないと感じることが度々あります。

名前は伏せさせていただきますが、最近知り合った、あるお坊さん(私より年下)は、皆で集まったとき、脱ぎ散らかされた靴を一足ずつ揃え、解散になったあともお店の人に任せればいいものを自分から皿やコップをまとめるなど、大変謙虚で辞が低く、また別のあるお坊さんは、私から見ても相当なカブキモノで、いろいろな武勇伝を耳にするにつけ非常に興味をそそられています。

そりゃあ世の中広いですから、彼ら以上に謙虚だったり面白かったりする人はきっといるでしょうが、実際てめぇの目ン玉で確かめないかぎり信じられないというのが人の性というものじゃございませんか? ましてや私が今まで見知っていた方々からの印象から考察す(以下自粛

さてまあそんな感じの私ではありましたが、ふとしたきっかけでそういう方たちとも知り合うことができ、見方が変わってきています。

それから、それぞれの宗教を「文化的背景」として知るのは若い頃から今でも興味がありまして、例えば、これらはもうほとんど日本語の慣用句として定着してしまった感がありますが、「目からウロコが落ちる」「額に汗して働く」といった言い回しの出典は聖書だったりしますし、あと有名なところでは、女二人に赤子を手を綱引きさせて力を抜いた方が本当の母親とした「大岡裁判」も、元は旧約聖書に登場するソロモン王のお話です。気候は温暖、食い物も旨いものばかりという房州で育った男の根性の無さを揶揄するのに、よく「アバラが一本足りねぇ」と言いますが、これも聖書で人類の始祖とされるアダムと何がしかの関係があるんじゃないかと思っています。

それらに限らず、西欧の本を読んでおりますと、ジャンルを問わず出くわすのが「メトセラのような(長命)」「ヨブのように(我慢強い)」「イスカリオテのユダ(=裏切り者)」といった表現。聖書文化になじみの薄い我々日本人は、そういうことを言われても何のことだかピンと来ません。逆もまた然りで、青い目の人に「(塩が肌にしみて)因幡の白ウサギみたいだよ」といっても通じないのと同じことです。

もちろん聖書に限らず、「オンアーボキャベーロシャノーマカボダラマニハンドマジンバラ…」で始まる光明真言はサンスクリット語という古代インドの言語で、数多の仏典はその古代語の解読に大変役立っているとか、ギリシャ神話から取られた数々の小話、あと古典落語の中にも実は「論語」や「老子」が元になっているものが結構あります。床屋の火事の話なのになぜか「厩火事」という名前になっている噺がありますが、論語のアレ、と言えば合点がいく人も多いのではないでしょうか。

そもそも、ガウタマ・シッダールタやConfucius、大工のヨセフのセガレたちが言っていたことは、読んでいて結構面白いですし、私自身なるほどと思うこともたびたびあります。彼らをして当時の偉大な哲学者・思想家だったと認めるにやぶさかではありませんが、問題なのは(以下自粛

とはいえ私もかくのごとく書き散らかしてはおりますけれども、なんせ日本という国から一歩も外に出たことのない身でありまして、また井の中の蛙が鳴いてやがると思し召しくだされば幸いでございます。今日のところはこの辺で。お後がよろしいようで。

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