何かに熱中できるとしたら、それはきっとすごくラッキーだよね。

Posted on : 17-01-2012 | By : sino | In : 地域社会, 外国語道, 経営道, 雑考

こんばんは。自分の趣味の延長で仕事をしているもので、普段あまり仕事がつまらないとか、キツイとか思わずに済んでいる高梨です。今回は公共のネットに憚ることなく大自慢しちゃいますので、お暇な方だけお読みください。w

さて、こういう仕事をしておりますと、ときどき「そんなにお詳しいんなら、専門の学校を出られたんでしょうね?」と言われることがあります。このブログをお読みの皆様ならご承知でしょうが、私は情報工学系の専門学科の出ではありません。

また、英語圏の外国人と話していると、「お前がそうやって英語を操れることが信じられない(驚きだ・日本人じゃないみたい、などなど)」と、ほとんど会う人ごとに、と言っていいほど驚かれます。が、これも英会話学校に通ったわけでも、留学や海外在住していたわけでもないことは、やはり皆様ならご存じでしょう。受けた教育といえば中学・高校・大学の10年間くらいのもので、あまり特殊なものではないと言えると思います。(なので、昨今の英語の早期教育の風潮に疑問なのです。実感として中学から始めても充分だと思っているので。)

ただし、コンピュータと英語は、それこそ家族に呆れられるくらい(特に前者は)、熱烈に「モノにしたい」と思ってはいました。なぜかというと、どちらも、若かった当時の私にとって将来役に立つことはわかりきっていたことでしたし、自分の好みにも合っていたからです。

誤解する人がいるかもしれないので大急ぎで付け加えますが、それは何も私に「先見の明があった」からでは断じてありません。そんなものが本当にあったら今頃もう少しマシな暮らしをしているでしょう。w どちらかというと「それくらいしかできなかった」というのが本人の実感です。

その実感というのはある程度真実でして、例えばこれをお読みの方には既婚者も多いと想いますが、私は未だに独身で、もちろん子供もおりません。自分の住んでいる家を自分で建てたかって? まさか! この歳になって住まいはおろか、炊事洗濯家事親父まで面倒を見てもらっている身分です。独身貴族なら、彼女はどうか? これも否と答えざるを得ません。

・・・などなどと考えると、「高梨は英語とパソコンには詳しいかもしれないけど、彼女もいない哀れなやつ」と思えてくるでしょう。実際そうなんですから否定のしようもありませんが、ここで申し上げたいのはそういうことではないのです。

むしろ、私はかろうじて英語(という外国語)とコンピュータを「モノにできた(と少なくとも自分では思える)」から、 ラッキーな方だと思うのです。

例えば、かくのごとく「頭がよさげ」なことを自慢している私ですが、知的分野に限ったとしても苦手なことのリストは以下のような有様です。

  • 数学全般 (やっとこすっとこ基本的な微分積分ができる程度)
  • 碁・将棋・などのいわゆるテーブルゲーム (小学校以来、無勝の実績あり)
  • テレビゲーム (苦手というより興味がわかない)
  • 道を覚えること (地図は読めるんですが、その上で間違う)
  • 数独・クロスワードパズルの類 (若い頃は好きだったが、今は面倒くさすぎる)
  • 何かモノを作ること (親父からは「ぶきっちょ」と度々呼ばれています)

本当はこれに「歴史の勉強」と付け加えたかったのですが、最近になって(外国の)歴史モノ小説の面白さがわかって来たので、割愛しました。

だいたい上のリストを見ると「理系」なことが不得意な感じを受けるでしょうが、それを言ってしまうとコンピュータ屋として立場がないので、自分では言いません。w また、「運動・スポーツ一般」と「女性との交際」は一般的には知的分野とは呼ばれておりませんので、やはり除外しています。

というわけで、外国語とコンピュータはたまたま私の適性に合っていただけの話で、それさえモノにできなかったら今頃どうしていただろうか、と恐ろしくなることさえあります。実際、方向音痴が治るんだったら、頭の中にある英単語100個と引換えにしても惜しくはないですね。

ただ、冒頭でも申し上げた通り、私はコンピュータというものがやはり好きで、それこそICサイズのものからクラウドまで使いこなし言うことを聞かせることをメシの種にしており、自分の好きなことを仕事にできているというのはものすごく幸せだよなあと思うんです。あまつさえ、この3日ほどお客様から「お前が地元にいて何かあるとすぐ来てくれるから本当に助かるよ」という旨のお言葉をいただいたところですし。

だから、若い人が職業を選ぶにあたって、ぜひ考えに入れていただきたいのは、それが「自分のやりたいことか」と「人から感謝されることか」の二つです。もしその二つをクリアできているなら、それはやる価値がきっとあります。あ、あともちろん他にも「儲かりそうか」もあります。w 「他にやっている人がいない」とか「ダサい・カッコ悪い」とかはあんまり考えなくていいんじゃないかな。(むしろそれらはチャンスなんじゃないかとも思います。)

成人式とかセンター試験の季節になったので、またくだらないことをと思いつつ書いてしまいました。参考にしていただければ幸いです。

そんなもんなら10年も100年も2000年も前からあるYO! (・∀・)ニヤニヤ

Posted on : 04-12-2011 | By : sino | In : 地域社会, 雑考

英語はなんとか話せるのに、横文字(カタカナ語)にはめっきり弱い高梨です。つい最近まで「コンデジ」のことを「コンシューマー・デジカメ」だと思っていました。orz

さて、その私以上に横文字に弱い親父とNHKを見ていたとき、こんな質問をされました。「この人はコミュニティ、コミュニティって言ってっけんが、コミュニティっちゃあんだえ(何だい)?」コミュニ「チー」と言わなかったところは、我が親ながら褒めてあげたい。w

で、「んー、まあわかりやすく言うなら、『近所付き合い』とか『仲間』ってことかな。天津なら天津の、仲宿なら仲宿の近所、みたいな」と答えました。(これが正しい答えかはツッコミ不要)

ただ、そこでハタと思ったんです。私たちはどうも昔からあるものを新しい名前で呼ぶことだけで何かを得たような気になっていないだろうか、と。特にアーリーアダプタ、天津弁でいえば「ニイモン好き」な人にこの傾向があるような気がしてなりません。

いや実際私が飯を食っている業界なんてその最たるものでして、VPS→IaaS、NFS→ファイルサーバ→NAS→パーソナルクラウド(?)なんて本質的には何も変わらないのに、あたかも革新的な新製品のように呼び方だけを変えたりしています。営業な人に言わせれば「その方が売れる」からなんでしょうが。

千葉で働いていた当時、とある企業の企画会議の末席に加えていただいたことがあるのですが、正直に申し上げて、私としてはあまりなじめませんでした。というのは、私以外の人たちは何か斬新な着想をその会議で得た!と大喜びしているようなのですが、私は「え!?それって孫子が言ってたことだよね?」「そんなことなら孔子も言ってたよね?」と内心で感じることがしばしばあったからです。つまり私からすると、彼らがあまりにも不勉強に見えたのでした。いや、もしかするとみんな内心では私と同じように感じていて、でも場の空気や社内的な政治事情を計算して喜んでいるフリをしていたのかもしれない。まあきっとそれは勘ぐり過ぎでしょうけど。

最近何かの本で読んで思わず笑ってしまったのですが、アメリカのある大学教授の調査によると「貧困層の収入が増加するにつれて、彼らはより社会的・文化的な生活を送る傾向を示す」という結果を得られたそうです。わざわざそういうことを大真面目に調査・研究しなければわからなかったことに呆れて笑ってしまったので、そんなことなら「衣食足りて礼節を知る」と3,000年近く前に斉の管仲が言っていたことです。ちょっと前の日本人なら「斉の管仲」は知らなくても、誰でもこの言葉を知っていたでしょう。

私が「ああ、この人は『常識』がないなぁ」と思うのは、そういうときなのでありまして、何も世間一般と比べてやや変わっているとか、想定外の行動をする人に対してではありません。それは個性や特徴のうちなのであって、誰だってそれぞれ人とは違っているものです。

ましてや諸行無常の人間社会において、何かが「絶対」ということはありません。最近は、冒頭に挙げた「コミュニティ」の時代なんだそうですが、そんなものなら天津にだって昔からあったので、ただそれを「コミュニティ」なんて横文字で呼んでいなかっただけのことです。

今ふと思ったのですが、こうした代替語(新語とは敢えて言いません)を使うことには、使う本人に取って一つの利点があるようです。それは「場の流れを一瞬止めさせる」効果です。何か聞き慣れない言葉を耳にしたら、普通は「ん?なんだって?」と耳をそばだて、次に「それはどういう意味だろう」と文脈から類推しようとします。それでもわからなかったら「あの、すみません、今おっしゃった◯◯というのは、どういった意味でしょうか?」とへりくだって尋ねるでしょう。その間にも話し手はどんどん話を進められるわけで、それだけ優位に立てることになります……

あれ?私としたことが、なんだかジジイのような主張になってしまったでしょうか?私は新しい物を受け入れることのできない、頑迷な老害オッサンになってしまったのでしょうか?いや、たぶん、「新しい考え方やモノを受け入れること」と「昔からあるものにヨコモジ(または似非四字熟語)の名札を付けて呼ぶこと」とは、全く別のことなのだと思います。その見極めは時に非常に難しいものですが、それをしないと、読み・聞きかじった言葉を垂れ流す「九官鳥人間」に堕してしまいかねませんから。

人肌寂しくなってきたので、ふと「愛とは何か」なんてことを語っちゃってみたりする。

Posted on : 19-10-2011 | By : sino | In : Hacking, 雑考

や、そんなに高尚でも「かくかくしかじかである!」的な結論があるわけでもないんですがね。例によってオナニーエントリなのでその辺りはご了承ください。

ええとまず、仕事柄「パソコンが壊れたのでなんとかしてくれ」という依頼を多く受けます。そのために弊社があるようなわけなんで当然なんですが。で、たいてい「あー、これはもうダメですねー、買い換えましょう」という話に(やや意識的にw)持って行ったりします。その仕事が済んで「じゃあ古いパソコンどうします?」となったとき、さりげなく「もし不要ならば弊社が無料でお引き取りしますが」と言い添えるようにしています。

これはもちろん「修理・再生して新たに売る」ことも目論んでの提案なのではありますが、壊れてしまうようなPCは当然年式も古く、よほどの美品でないと他のお客様に使っていただくことはできません。それよりもむしろ、感情論として「今まで一生懸命ご主人様に尽くしてきたのに、壊れてしまったからと言って廃棄されてしまう機械が不憫でならない」という気持ちの方が、どちらかというと強いんですね。

実際、そうしてお引き取りしたPCは中古品として売ったという実績は今までのところなく、弊社のインフラ(設備)として余生を過ごしてもらっています。例えば、弊社のファイアウォールは12年前に発売されたパソコンを今も再利用して使っていますし、しばらく前まで寝床で使っていたノートPCは同じ機種の別の箇所が壊れたものを繋ぎあわせた「ニコイチPC」でした。

そういう心掛けのせいか、私自身が購入して使ってきたPCでパーツも含め、「壊れた」ものというのはほとんどありません。自分でいじったり、床に落としたりして「壊して」しまったものはいくらかありますが。自分のPCが壊れないでお客様のPCがいい感じに壊れてくれるのはなんとも都合のいいことではありますが、実際のところそうなんです。

逆もまた真なりで、これは実感としてあるんですが、故障する率が高いのはどちらかというとフラストレーションを感じながらパソコンを使っているお客様の方が多いような気がします。「人間の脳波が機械に影響する」なんてことはおよそ非科学的なのであまり言いたくないのですが、そんなこともあるんじゃないかと思うくらい感じます。

ええと、俺は何を言いたかったんだっけ。そうそう「愛とは何か」ということでした。

で、ですね、上の「機械も愛情を持って使えば応えてくれる」ということとも微妙に関連するんですが、じゃあもっと狭義な(人間に対する)「愛って何」ということについて考えてみたいんですね。

35にもなって独身でおりますと、さすがに周りが「結婚、結婚、ケッコン、コケコッコ・・・」とニワトリのように騒ぎ始めます。お察しの通り、同居している親からは「早く嫁さん見つけろ」と顔を合わせるたびに言われておりますし、友人・後輩からも同様です。

そこで、考えるんです。したり顔で私にかく申す彼ら自身は、奥さんに愛情を持って接しているのだろうかと。幸い、私の周りにいるやつらは生粋の日本男児でありまして、自分の細君を人前で褒めそやしたり、人目もはばからず抱擁したり接吻したりするような軽佻な輩はおりません。むしろ彼らの口をついて出てくるのは揃いも揃って「うちのヨメさんはさぁ、カクカクシカジカでほんと参るよ」という愚痴なんですね。最初はノロケのうちかと思っておりましたが、どうやら本気で悩んでいるらしい。「じゃあ結婚なんてしなければよかったじゃないか」と言いたくなるくらいの愚痴りようなんであります。

ではありますが、そこで私が「ああそうだよな、お前の奥さんはシカジカでほんと最悪だよな。いや全く同情するよ。」などと言おうものなら、流血沙汰の喧嘩になりかねないことは、いくら空気が読めない私でも重々承知しております。同情して不興を被るというのも奇妙な話ではありますが、これまた事実。

以上のことから、つらつら考えてみるに「愛(情)ってのは、算段(理屈)を超えた何か」なんだな、ってことです。なんか平凡なオチなんですけどもう少し説明します。

分かりやすいところで「子供に対する愛情」ってのを考えてみましょう。私にはもちろん子供はおりませんが、一応親というものがあり、人並みに育てられておりますので、親の愛情を受けた経験はあります。

では、親というものが「自分の子供はこれこれこういう長所がある一方でこういう短所もあって、でも総合的に考えて、長所の方が大きいからうちの子供はかわいい」といった計算をして子供を愛するものでしょうか? いや、絶対に違うと思います。世にもよく「できの悪い子ほどかわいい」と言われている通り、むしろ欠点があるからこそ愛情が増すということもあるのではないでしょうか。

「恋と愛の違い」なんてのも女子向け雑誌で話題になったりしますが、その違いというのもそんなところにあるんじゃないかと思います。つまり「恋」ってのは、相手の長所・美点「しか」見えていない状態。「私のカレって、背が高くって、イケメンで、お金持ってて〜」というアレです。ま、実際そう露骨にノロケることはないのかもしれませんが。w

あるいは、「◯◯マニア」「△△のファン・追っかけ」「□□オタク」に対する世間一般の冷めた見方の原因というのもそういうところに因を発するものかもしれません。つまり、「こいつら、こんなにモノ(あるいは他人である芸能人、アニメキャラなど架空の人物、etc…)に対して血筋を上げてるけど、本当はもっと愛情を注ぐべき対象があるんじゃないの?」という言葉にならない不信感です。その不信感というのももっともで、概してなんちゃらマニアはその対象の美点しか注目しません。つまり彼らの愛情は「説明可能」なのです。説明されてもその良さが「パンピー」にはわからないことは往々にしてありますが、とにかく本人には理由が分かっています。

私が壊れたパソコンを引き取るのは、それが「処理速度が速く、大容量で、消費電力も少なく、つまり私にとって素晴らしいものだから」ではないことは先程述べた通りです。もっと早くいうと、機械に対して人に対するのと同じような「人格」を見出していると言ったらいいでしょうか。

そこで鋭い方なら、「じゃあお前が飯の種にしているという『ソフトウェア』に対してはどうなんだ?」と問われるかもしれません。それは「いい質問ですねぇ。」 以下、ちょっと長くなりますが、私の言いたいところなのでだいぶ遠回りになりますが、お暇な方はおつきあいください。

面白いことに「プログラム(またはソフトウェア)を・・・」に続く述語は人それぞれでありまして、ある人は「作る」と言い、ある人は「組む」、またある人は「上げる」と言ったりします。私はそれらのどれも使わず、一貫して「書く」という言い方をしています。ここは結構こだわっているので例外はないと思います。

なぜそんな言い方にこだわっているかというと、将来どんなに開発ツールが進化しても、おそらくプログラミングの本質は「書く」ことに他ならないと思うからです。そして、書くというのは、(このブログもそうですが)本質的に「文字を並べて意味を成す」ことです。

世に新聞・雑誌・書籍・論文などいわゆる「書き物」の類は数多くありますが、それらは言うまでもなく「人間に」読まれることが前提で書かれています。ではプログラムは、というと、第一義的にはコンピュータに読まれることを前提としています。それは当然のことで、コンピュータが読んでくれないプログラムは動作せず、売り物にならないからです。ただ、一義的にはそうなんですが、では動作しているプログラムは書かれる人によって違いはないのか、というと、これはもう歴然とあるものなんです。書く人によっては「美し」くて「文学性」や「ユーモア」を感じることさえあります。

だから、私はプログラムを「書く」という言い方にこだわっています。「作る」や「組む」だと、物理的に機械を作っているようで(成果物はそれに近いんですが)あまり好きではありません。

さて、私にとっては「書き物」であるプログラム自体が愛情の対象にならないのは、ラブレターの書き手を思い焦がれることはあっても、その便箋自体を恋慕するわけではないのと同様です。プログラムを見て「こいつ頭おかしいだろ!」と毒づいたり、「うぉっ、クールな処理してんなー」というのは常にそれを書いた人に対してです。

なので、意外かもしれませんが、プログラムそれ自体に「人格」を見出すことはほとんどありません。あるとすれば、たいていは顔も知らないその書き手に対して同業者としての判断を下す、というところでしょうか。あるいはLinuxを作ったリーナス・トーバルズやRubyの生みの親のまつもとさんに対して、冗談まじりに「教祖」と崇めたりすることはありますが、それは「愛情」とはかなりかけ離れた感情です。

というわけで、今日の白熱教室では、人が何かを「愛する」というのは、その対象が「良いから」とか「素晴らしいから」といった「説明可能な理由を持つ」からだけではないということが見い出せたとても意義深いものになった。東京・上海そしてハーバードの君たちに感謝したい!ありがとう!

はらいたまえ。 おお、かみよ! なんまいだー?

Posted on : 02-02-2011 | By : sino | In : 雑考

このブログをお読みの皆さんはご存じかと思いますが、「宗教」および「宗教らしきもの」に対して、今までは少なからずアンチの立場をとっておりました。主な理由は二つあり、一つはアイザック・アシモフやリチャード・ドーキンスといった筋金入りの無神論者に共感を感じていたからで、もう一つは、 ( 身 の 危 険 を 感 じ る の で 割 愛 w )だからです。

がしかし、最近そういった見方を変えなければならないかもしれないと感じることが度々あります。

名前は伏せさせていただきますが、最近知り合った、あるお坊さん(私より年下)は、皆で集まったとき、脱ぎ散らかされた靴を一足ずつ揃え、解散になったあともお店の人に任せればいいものを自分から皿やコップをまとめるなど、大変謙虚で辞が低く、また別のあるお坊さんは、私から見ても相当なカブキモノで、いろいろな武勇伝を耳にするにつけ非常に興味をそそられています。

そりゃあ世の中広いですから、彼ら以上に謙虚だったり面白かったりする人はきっといるでしょうが、実際てめぇの目ン玉で確かめないかぎり信じられないというのが人の性というものじゃございませんか? ましてや私が今まで見知っていた方々からの印象から考察す(以下自粛

さてまあそんな感じの私ではありましたが、ふとしたきっかけでそういう方たちとも知り合うことができ、見方が変わってきています。

それから、それぞれの宗教を「文化的背景」として知るのは若い頃から今でも興味がありまして、例えば、これらはもうほとんど日本語の慣用句として定着してしまった感がありますが、「目からウロコが落ちる」「額に汗して働く」といった言い回しの出典は聖書だったりしますし、あと有名なところでは、女二人に赤子を手を綱引きさせて力を抜いた方が本当の母親とした「大岡裁判」も、元は旧約聖書に登場するソロモン王のお話です。気候は温暖、食い物も旨いものばかりという房州で育った男の根性の無さを揶揄するのに、よく「アバラが一本足りねぇ」と言いますが、これも聖書で人類の始祖とされるアダムと何がしかの関係があるんじゃないかと思っています。

それらに限らず、西欧の本を読んでおりますと、ジャンルを問わず出くわすのが「メトセラのような(長命)」「ヨブのように(我慢強い)」「イスカリオテのユダ(=裏切り者)」といった表現。聖書文化になじみの薄い我々日本人は、そういうことを言われても何のことだかピンと来ません。逆もまた然りで、青い目の人に「(塩が肌にしみて)因幡の白ウサギみたいだよ」といっても通じないのと同じことです。

もちろん聖書に限らず、「オンアーボキャベーロシャノーマカボダラマニハンドマジンバラ…」で始まる光明真言はサンスクリット語という古代インドの言語で、数多の仏典はその古代語の解読に大変役立っているとか、ギリシャ神話から取られた数々の小話、あと古典落語の中にも実は「論語」や「老子」が元になっているものが結構あります。床屋の火事の話なのになぜか「厩火事」という名前になっている噺がありますが、論語のアレ、と言えば合点がいく人も多いのではないでしょうか。

そもそも、ガウタマ・シッダールタやConfucius、大工のヨセフのセガレたちが言っていたことは、読んでいて結構面白いですし、私自身なるほどと思うこともたびたびあります。彼らをして当時の偉大な哲学者・思想家だったと認めるにやぶさかではありませんが、問題なのは(以下自粛

とはいえ私もかくのごとく書き散らかしてはおりますけれども、なんせ日本という国から一歩も外に出たことのない身でありまして、また井の中の蛙が鳴いてやがると思し召しくだされば幸いでございます。今日のところはこの辺で。お後がよろしいようで。

房日新聞 12月4日号社説「展望台『無縁社会』」への公開コメント

Posted on : 06-12-2010 | By : sino | In : 地域社会, 雑考

普段、私は情報収集は専らネットで行っており、あまり新聞というものを読みません。が、房日新聞だけは別で、会社の経費で購読しています。 4日の社説「展望台『無縁社会』」の後半に興味深いご意見を拝見したので、僭越ながらコメントを寄せてみたいと思います。(記事内容については、右画像をクリックしてご参照ください)

この記事の筆者の方はおそらくはご高齢で、ネットをお使いになっていたとしても、メールやWeb閲覧くらいではないかと拝察致します。

まず、「ネットの前提は、隣にいる人も地球の裏側にいる人も同等」とありますが、必ずしもそうではないことをご指摘させていただきます。私は最近Twitterというサービスを楽しく利用しておりますが、例えば鴨川市内在住の方、あるいは鴨川ご出身の方といった、地域を軸にした縁を得ることも多く、地元のローカルな話題で盛り上がることもしばしばあります。またmixiという国内サービスでは地元のある飲食店を中心としたコミュニティが現にあり、月に一度オフ会(誕生月会)が開かれています。私自身が多忙のため、なかなか出席することはかなわないのですが、後者は当地域では稀有な(笑)存在である若者たちにとって貴重な交流の場となっております。

もちろんそれは、私どものような者にとっては「死」が喫緊の憂患事ではないからなのかもしれません。しかしながら、ただでさえ若者向けの娯楽場が少ない当地域で、ネットでの「つながり」を「分断された弧を象徴している」と断じてしまうのはいかがなものでしょうか。道を歩けば見かけるのは高齢者ばかりの当地域の若者にとってネットは貴重な出会いの場であり、もし、「人の死という超リアルな事態に対して…ネットのサイト縁は果たして何をし得る」かを問われるならば、文通や電話も同じことではないかと考える次第です。

遡りまして、「地縁」について、最近新しい知見を得ましたのでご紹介させていただきます。

私自身は、ここ、鴨川市天津地区で生まれ暮らす者として、おっしゃるような地縁を快いものと受け止めております。昔からの知り合い、友人、ご近所に囲まれて暮らし、顔を合わせれば抵抗なく挨拶を交わすことのできるこの街に無類の愛着を持つ者です。

ですが、都内の連携企業社員の方とネットで雑談を交わした折、こうした関係を必ずしも快く思わない、むしろ耐え切れないほど鬱陶しく感じる人もいることを教えられました。別の機会では、Twitter上で「隣人に家の中を覗かれるようにして暮らすなんて自分にはできない」という旨の発言も散見したこともあります。

正直なところ、そうした考えや発言が実際にあることをやや淋しく感ぜざるをえませんが、そうした人もいることも時代の変化として受け止めなければならないとも考えております。幸い、私がおつきあいさせていただいている鴨川市への移住者は、むしろそうした縁を求めて越していらっしゃる方が多く、安心を覚えてはいるのですが。

私自身も初めての経験ですので、こうしたコメントをブログにてお寄せすることが正しいのか、文意から察すればあるいは避けるべきであったかもしれませんが、他に適当な方法を思いつきませんでしたので、非礼の際は何卒ご容赦ください。

馬鹿とは言わないが、知性の欠落した中国批判について

Posted on : 06-12-2010 | By : sino | In : 雑考

WBCでは日本を熱く応援し、自国の国旗には敬意を表し、抵抗を感じることなく国歌を歌う、標準的な愛国者として一言いっとく。今までいろいろな中国批判を見聞きしてきましたが、この「“中国”という国」という記事は、説得力・文章の巧拙・問題に対する態度などの視点から見て、まあ日本語として文法的には正しい文章にはなっているレベルとは言えますが、それ以上のものでは何一つといってないでしょう。端的に言えば「視点が浅薄かつ高所的過ぎ、知性のかけらも感じられない」ということになるでしょうか。むやみに断定的なのも気になります。

例えば、

今回の中国の姿勢を見ると、まさに中華思想そのものである。

中国という国は全く信用がおけない。
それもそのはず。
中国四千年の歴史というのは誤りであり、中国大陸という土地において四千年以上にわたって、民族や王朝同士が互いを殺戮し合い、征服し合ってきたのだから、日本人の常識は通用しないのだろう。

とありますが、ではそうではない国が世界にどれだけあるでしょうか?ヨーロッパにおいても、史実として残っているだけでも少なくとも2000年以上にわたって「民族や王朝同士が互いを殺戮し合い、征服し合ってきた」歴史がありますが、ヨーロッパ諸国が「全く信用がおけない」ことになるのかな?南北両アメリカ大陸なんかは、コーカソイドによって固有民族が迫い立てられ、強制労働させられ、搾取されてきたんだぜ?まあそれはおいても、「中国=中華思想の国」ってのは、いくらなんでもステレオタイプが過ぎるでしょう。2才になるうちの甥っ子でも、もうちょっと知恵のあることを言えそうだ。w 察するに神道系の座学会かなんかで聞きかじった主張なんでしょうが、もう少し精査した方がいいと思うよ。

保守系論者の間ではしばしば「中国四千年の歴史というのは誤り」という主張そして同じくらいの頻度で「我が国皇紀2600年の正統性(?)」が見受けられますが、ちょっとこれについて言及しておきます。例えば中国最後の王朝「清」は、満州族の愛新覚羅氏が打ち立てた国です。つまり少数民族である満州族がそれまでの漢人王朝明に取って代って、漢民族が大多数を占める中国地域の支配を始めました。

ただし、中国の歴史ではよくあることですが、支配者であるはずの清王族の方が次第に「漢化」されていき、王朝末期には満州語を話せる王族はほとんどいなかったと言われています。確かに男子の辮髪強制など文化の面で全く専制的でなかったとは言えませんが、その程度の強制であれば、同時代の我が国においても「生類憐みの令」「質素倹約令」等、類するものはありました。そして、驚くべきは、中国の史書は新王朝によって前王朝のものが書かれていたということです。つまり明朝の歴史について書いたのは、取って代った清朝の官僚たちでした。

というようなわけで、「中国◯千年の歴史」という言い方もあながち間違ってはいないと、私は考えているのですがいかがでしょうか。むしろ、2,600年(?)もの間、天皇が男子一系で存続してきた我が国の場合の方が、よほど稀有な例で、世界に類を見ません。「日本人の常識」が通用しないのは中国だけでなく、世界中について言えるでしょう。

中国的共産主義によって国家は成り立っているが、経済面では唯物主義、超資本主義である。
中国人の多くの考え方も物質至上主義的なところが大きい。

また随分と物々しくのたまったもんですな。(苦笑) その割に理由や根拠を一つも挙げず、この言い切り方、断定口調。主観に囚われきっていることに気づいておられるだろうか?そうまで言いきれるあなたは、あの国の何を知っているというのか。

しかし、私が5年以上前から指摘しているように、中国は必ず大きな壁にぶち当たる。
物質主義は必ずや崩壊するときが来る。
そのとき、かたちのないところに新たな価値を見出せなければ、おそらく中国という国家は崩壊するであろう。
否、すでに崩壊は始まっているかもしれない。

で、つまるところこの5年以上の期間に渡ってその指摘とやらは当たらなかったわけだね?w まあ期限を設けなければどんな予言だってできるわな。「太陽はいずれ必ずや爆発する!(数十億年後にはきっと…)」

という意地の悪い指摘はさておき、私は中国人とだいたい週に一度会っているのですが、そこで受ける印象は、「マルクス・レーニン主義」「共産主義」「唯物主義」という言葉からは、かなり隔たりがあります。むしろ彼らの宗教観は、迷信深いというか、なんでもありがたがっていた江戸時代の庶民のそれに近いものがあるように思われます。彼らが首に下げていた「大仏」は、その表情が日本の「大黒天」に驚くほど似ていました。また、横浜の中華街に連れていった生徒の中には「天帝」に敬虔な祈りを捧げている人もありました。

附言すると「精神vs物質」という二元論的な見方自体、ニーチェ辺りに言わせれば西洋哲学に毒されている証拠で、和を以て尊しと為す我が国の伝統文化とは相容れないように思われますが如何?

ちなみに尖閣諸島問題について。
一番の解決方法は米軍基地を作り、駐留してもらうことだろう。
自衛隊だと中国に対して刺激が強すぎる。
せっかく日米安保で守ってもらっているのならば、米軍を活用しない手はない。
ついでに日米共同で油田開発でもしてはどうだろうか。
アメリカもこの提案には乗ってくるのではないだろうか。

あのね、アメリカのよき父母たちに「あなたのお子さんに俺達のちっぽけな領島を命懸けで守ってもらいます。あ、ちなみに俺達は自国の軍隊さえ出しませんからそのつもりで♪」って言うつもりですか? 確かに俺は実利も重視するけど、さすがにそこまでセコくはなれない。「共同で油田開発」って、そういう発想こそを「唯物主義」って言うんじゃないの!?

さて、普段なら宮さま育ちの白ネギが何を言ったところで黙殺するだけですし、そもそも普段注意を払っていないのですが、今回はあまりに目に余ったのと、突っ込み所満載だったので大人げなく噛みつかせていただきました。

実はこの文章、かなり前に書き始めたのですが、「一身上の都合により」、今更ながら晒すことになってしまいました。遅延をお詫びします。

みんな頑張ってるんだよな・・・

Posted on : 06-07-2010 | By : sino | In : 地域社会, 経営道, 雑考

どっちかというとつぶやきに近いエントリになってしまいます。

最近、いろいろあっていっぱいいっぱいだったんですが、ふと、「自分だけじゃないよな」と思い直しました。みんなそれぞれ責任持って一生懸命やっている。俺だけじゃないよな、って。

私の周りには、仕事の他にご自分の意志で「ボランティア」に取り組んでいる方が多く、私もその真似事をしているのですが、「なんでこの人(たち)はこんなに一生懸命、責任持って事に当たれるんだろう」と思わされることがしばしばあります。そこへ行くと自分のしている事は、非常に無責任で、決まりがつかず、中途半端なんですよね。それは、いろいろ手を出しすぎているからなのかもしれませんが、にも関わらず、ある程度の瑕疵や失敗は大目に見ていただいている。どこへ顔を出しても、たいがい笑顔で迎えていただいています。(裏では怒りを押し殺しているのかも。だとすると怖いですが。)

ただ、いつまでも自分がいっぱいいっぱいじゃあダメでしょうね。私の「後輩」たちは、文句のつけようがないほどしっかりしている奴ばかりで、こっちが恐縮するばかりなのですが、いつか自分(たちの年代)が嫌でもまとめて行かなければならないことを考えると、もっとしっかりしなきゃあな、とも思います。

みんなそれぞれ一生懸命頑張っている。汗かいて、歯を食いしばって、仕事も家庭もボランティアもやっている。俺だけが楽な思いをできるわけがないよな、と改めて思うのでした。

想像力の欠如は時として命に関わる

Posted on : 04-04-2010 | By : sino | In : 雑考

クリエイティビティ、つまり「創造力」の話ではありません。「想像力」についてちょっとお話をさせていただきたい。

私の周りでは概して「経験or実績第一主義」が優勢です。そして、どちらかというと、都会よりも田舎の方がその傾向が強いようです。つまり「何事もやった人がえらい」裏を返せば「やってない奴は口を閉じておけ」という傾向ですね。さらに言えば「何もしてないやつが批判するなどもっての他」となるでしょうか。確かに心情としては大いに分かりますし、私自身そう思うときもあります。

ですが、果たしてそれでいいのか、ともときどき思うのです。

まあ私とおつきあいいただいている方はよくご存じの通り、私ほど無責任でいい加減な奴はそうそういないでしょう。約束は破り、予定には遅刻し、連絡もすっぽかし、飛行機の切符は無くし、といった具合で「すいません」「ごめんなさい」を言わない日はないんじゃないかと自分でも思うくらいです。私が日頃何か言われたら、すぐ対応するようにしている、少なくともそうするように心掛けているのは、放っておくと自分で忘れてしまうことを恐れているからに他なりません。

そんな私ですが、いろいろ妄想することは大好きで「現状のここのところ、ちょっと問題だな」とか、「こうしたらもっと良くなるんじゃないか」と考えたりするのは自分で好きというくらいなので、人よりも得意な分野と言ってもいいかもしれません。ついでに言えば、この癖は自分の仕事にも直結しています。

ただ、そうした視点というのは「現状に対する批判」といえばそうも言えるわけで、あまり論調を過激にすると受け入れられないこともある、というのは30年ちょっとの人生で学んだ数少ない法則です。大変幸いかつ不思議なことに、私の発言は大抵の人が受け入れてくださるので、私自身について言えば、あまりこの点について不満を抱えてはいないのですが。

で、そうした視点には「想像力」が欠かせません。ここで言うのは野放図に大風呂敷を広げたり、空想の世界に遊んだり、ということではなく、「こうしたらこうなる(はず)」とか「これこのままだとヤバい」という、現実に即して考える能力のことです。そういう能力というのは何も特別なことではなく、皆さん日常生活で使っているはずです。

例えば、自動車の運転中は暗黙の想像力をフル活用していることでしょう。「この道は婆さんが平気で道の真ん中を歩いているからスピードを落とそう」とか「もう夕方だから学校帰りの子供がチョロチョロしてるんじゃないか」とか「この横道は子供がよく遊んでいるからボールを追っかけて飛び出してくるかもしれない」とか。言葉にして考えてはいないでしょうが、きっと無意識にそう考えながら運転しているはずです。このエントリの表題で言いたいのはそういうことです。

そうした能力と、例えば活字を追って情景を想像する能力とは別物と考えられることが多いのですが、そうとも言いきれないように私は思います。もし私が人より想像力に長けているとすれば、その力はおそらく読書という習慣に因るところが大きいと言えるかもしれません。

あと、例えば「ユークリッド幾何学が何の役に立つのか」といった意見を耳にすることがあります。おそらく平行四辺形の対角が互いに等しいことを覚えても、それからの人生で役に立つことはないでしょう。ですが、それを証明するまでの過程、つまり「こうだから、こうなり、最終的にこういうことが言える」と論理立てて証明するまでを理解し、自分で追って見せる能力というのは、例えば会議の場で自分の意見に説得力を持たせる上で大変役に立ちます。矛盾している意見に従おうという人は、世の中にまずいませんから。

そう考えると、学校の勉強もまんざら捨てたものではない、と私は思っています。

私にとって不思議なのは、そうした勉学に秀でていたであろう人ちに、往々にして想像力の欠如が見て取れることです。こっちはずっと立って聞いているのに、代読の挨拶文を長々と読み上げる○○長代理の方、日本語教室の生徒が徒歩か自転車で雨の中をやって来たことを知っているのに「なんで他の人を連れて来なかったのよ」と詰る国際交流協会の職員、説明中のプロジェクタースクリーンの前を平気で横切る学校の先生 etc, etc…

それが現状なのであれば、「勉強なんかできなくてもいい」「勉強のできるやつ=悪」のレッテル貼りがされてしまっても仕方ないのかもしれません。私はそうは思わないのですけどね。

ただ、その風潮は今に始まった事ではなく、アメリカでは早くもマーク・トウェインが「トム・ソーヤーの冒険」の中で、シドを頭はいいが心の冷たい子供として描くことで、知識層の傲慢を看破していました。日本でも「論語読みの論語知らず」として学問好きを皮肉った川柳が多くあります。

一方、西欧のことわざには「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というのがあります。意味することは自明かと思いますが「頭の足りない人は自分で失敗しないと学べないが、一を聞いて十を知るような頭のいい人は書物や過去の事例から先を予測することができる」という意味に私は取っています。なろうことならそんな賢者になってみたい、と愚駑馬は切望するものでした。

「時間の使い方」と「自由」について

Posted on : 26-02-2010 | By : sino | In : 地域社会, 経営道, 雑考

今日、あるお客様にご請求を上げ、その後雑談交じりにいろいろお話をしたのですが、その時「時間の有効利用」について話題になりました。

時間を有効的に利用するには、まず自分の行動記録をつけることから、という話にもなったのですが、何にせよ記録をつけることに関しては人一倍億劫に感じてしまう私。それでもつらつら考えるに最近のパターンというのは思いあたります。

概ね10:00頃起床。
たまに7時くらいに起きるときもありますし、昼過ぎまで寝ているときもありますが、だいたい10時頃が一番多いでしょう。起きてすぐやることは携帯の着信チェック、メールチェックです。その後、対応を考えながら、朝食。

日中(~17:00くらい)
打ち合わせ、メンテナンス、コード書き、急患対応、諸連絡、など。

18:00頃
夕食

19:00~
JC、消防、青年、日本語教室など各種ボランティア活動。

22:00~
上からの流れで、飲み(笑) 。

25:00頃
帰宅。入浴後、3階の寝床へ。この時間には居間で母が寝ているので居間にはいられません。
寝床トップ(ノートパソコン)で、メール書き、ブログ書きなど。仕事をすることもままあります。

27:00頃
就寝。その前に時間が取れれば読書。

ここに書いたのはあくまで私の記憶から見えてきただいたいのパターンで、徹夜で仕事するときもありますし、飲まないときももちろんあります。が、おおよそこんな感じで一日を過ごしています。

「自分の時間がないじゃないか」って?そんなことはないですよ、全部自分の時間だと思ってますから。経営者たる者、仕事に費やす時間を自分の時間と思わなければ失格でしょう。それに日中もネットで情報(新聞記事や旬なトピック、自分の興味あることを含む)を得たり、音楽を聞きながらコード書いたりと、いわゆる趣味と仕事をオーバーラップさせているので、そんなに苦になりません。

が、将来もし人を雇うことになったら、これではいけないだろうなぁと暗澹たる思いになることもあります。社長が仕事中にiPod耳に嵌めてるわけにはいきませんからねぇ。

それにも増して現実的に心配なのが、もし嫁さんをもらって家庭を持ったら、こうまで自由に時間を使えるか、ということ。家族との団欒も必要でしょうし、そうなったらボランティアに費やす時間を削らなければならなくなるかもしれません。同年代の知人、特に同級生たちが、結婚した途端、社交的でなくなるのも無理はないかもなぁとも思ったりします。

「休日は何をしてるんだ?」って?これがまた色々埋まってしまうものなのですよね。JCの例会および関係団体の手伝い、青年の手伝い、ウィークデーにやりきれなかった仕事、etc, etc… 正直、デートなんかしてる暇がないです。w

ただ、誤解の無いように申し上げておくと、私はそれを楽しんでやっています。まあ楽しめないとしても、少なくとも自分の意志でやっています。その点、会社や上司から命令されてサービス残業せざるを得ない社畜ども被雇用者の方に比べれば自由を満喫しているつもりです。

このブログや普段の言動からお分かりの方も多いでしょうが、私は自由であることをことの外愛しています。発言・言論の自由、行動の自由、学問の自由、職業選択の自由、タバコを吸う自由、などなど。その結果いわゆる社会規範(年上・年下の関係、親子の関係、近所づきあいの関係、顧客・サービス提供者の関係)を逸脱することもままあり、それは重々承知しています。ですが、福沢諭吉が「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言ってから、もう100年以上も経っているのですから、無条件に人にへつらうのは止めにしてもいいんじゃないか、と思います。そう言った以上、私は例えば年下にタメ口で喋られても気にしないことにします。また、鋭い方ならご明察いただけるかと思いますが、自由と平等は背反するものではなく、セットで考えて初めて成り立つものです。

あれ、書き出しからずいぶん違うところに来てしまいました。結論らしい結論も出せないままですが、もう夜も明けてしまうので、今日はこの辺で寝ることにします。おやすみなさい。

政治家につぶやいて欲しくないなぁ

Posted on : 13-02-2010 | By : sino | In : 雑考

こういう商売をしていますから、一応ネットで新しいサービスが流行ってると聞くと、とりあえずはアカウントを取得して、触ってみることにしています。mixi然り、twitter然り、Facebook然り。

が、結局「何が楽しいの?」ってことになって、その実、あまり使っていなかったりもします。mixiは最初は打ち明け話的なネタを披露したりもしてましたが、身内や近すぎる人がマイミクに多くなってあんまり書き込みしなくなりました。

最近話題のtwitterも結構前からアカウントを取得してはいたのですが、そして最近またやり始めてはいるのですが、やっぱりあんまり面白くありません。なんでみんな面白がってるんだかよくわからない。

ところが、テレビの報道によると、最近は政治家の先生方もtwitterでつぶやいているとのこと。まあ水商売人気商売なところもあるでしょうから、やってはいかんとは言いませんけれども、政治家だったら堂々と自分の声で演説してほしいなぁと思うのは私だけでしょうか。だいたい「何時から○○会議」「今日の昼飯はカツ丼」なんてつぶやきを見て面白いと思いますか?よっぽどその人のマニアックなファンならいざ知らず、政治家なら理想や信念を熱く語ってなんぼでしょう。

事実の羅列からも垣間見える人間性というのもあるかもしれませんが、それを読み取るにはかなりの労力を取られます。なら、演説なり文章なりで自分の心からのメッセージをがっつり語って欲しい。固まってもいないふにゃふにゃな雑念を垂れ流すのはやめて欲しいと思うのです。

というわけで、やるのであればブログをお勧めします。それも事実の羅列ではなく、自分の思うところをできるだけ平易な言葉で表現してみたらいいと思います。