言い訳

Posted on : 17-01-2010 | By : sino | In : 雑考

私は、常々「自分の発言には自分で責任を持ちたい」と思っています。ということは逆に「現状、責任を持てていない」ということでもあります。

なので、ここに書いたことも、よほどのことが無い限り後から削除することはないのですが、昨日初めてそれをしました。というのも、「マイノリティにはできうる限り配慮するべき」という別の方針と相成り立たないことに気づいたからです。

「マイノリティ」なんて横文字を使いましたが、要は、お年寄り、年少者、聾唖者、視覚障害者、そしてもしかすると女性など、比較的少数で、社会に対する影響力が弱い立場にある人たちのことをそう言います。

さて、昨日の私の発言の中には特定の職業の人々のことを、あきらかに侮蔑する表現が含まれていました。彼らをマイノリティと呼ぶことが一般的かはわかりませんが、私が考えるに、おそらく遠からずそうなっていくでしょう。また、何にせよ特定の職業を取り上げて侮辱するのは適切な発言とは言えません。

夜中に投稿して次の朝不適切なことに気づき、すぐ削除したのですが、天知る地知る、既に目に留められた方がいらっしゃって、その記事のことを今日早速尋ねられました。それもあって、こんな不面目な言い訳をしています。

決して守りに入ったわけではありませんので、これからも、大いに思う所を書いていきたいと思っています。ただ、公開する前には重々検討を重ねた上で「公開」ボタンをクリックするようにします。

あけましておめでとうございます

Posted on : 02-01-2010 | By : sino | In : 経営道, 雑考

今年も、毎年のように新年が始まりました。きっと来年もそうなるだろうな、と思います。本年もよろしくお願いいたします。

さて、今まで正月には新年に向けての誓いなどを立てていましたが、自分でも情けなくなるほど達成できていないので、やめにします。

その代わり、今年のテーマとしたい言葉をご披露します。それは

「狂簡」

です。「狂」の字が、やや強めの印象を与えますが、ちょっと説明させてください。

もともと興味があったのと、尊敬している人の影響で、今「論語」を読んでいるのですが、その中に

(かえ)らん与(か)、帰(かえ)らん与(か)
(わ)が党(とう)の小子(しょうし)、狂簡(きょうかん)にして、斐然(ひぜん)とし章(しょう)を成(な)す。
(これ)を裁(さい)する所以(ゆえん)を知(し)らず。

という孔子の言葉があります。訳としては「帰ろう、帰ろう。うちの田舎の若いやつらは、跳ねっ返りが強くて、意気盛んに文化活動をしているけれど、それを活かす正しい方法を知らない。(だからわしが帰って教えてやろう)」くらいになるでしょうか。「狂簡」という言葉の意味を辞書で引くと

志が大きく、小事には心を用いないこと。また、志は大きいが、おこないはそれに伴わず疎略なこと。

とあります。

私は今年で 34 になりますが、田舎社会では若い部類に入ります。それでも少ない後輩たちを見ていると、頼もしくなるような奴ばかりなのですが、自分もまだまだ負けていられない、そんな自戒も込めて、敢えてこの言葉を選びました。私の志が大きなものかどうかはわかりませんが、行いの疎略さは皆さんご存じの通りです。

といいつつも、最近、若者の間で流行っている音楽の良さがわからなくなってきました。このまま行ったら「最近の若い奴らは・・・」と老害丸出しの発言をするようになりそうで、いささか怖い気もしている今日この頃です。

たぶんAI(人工知能)が実現するのは、メガコアCPUができてからだと思う

Posted on : 16-12-2009 | By : sino | In : 雑考

今のコンピュータは、実は、原理的に一度に一つのことしかできません。「プリンタで印刷しながら、動画再生だってできるじゃないか」と思われるかもしれませんが、それは、コンピュータにさせる仕事を数億分の1秒単位で細切れし、取っ替え引っ替え行っているため、人間には同時に複数の処理をこなしているように見える、と言うだけの話です。

Core2, Core2Duo など1つの部品パッケージの中に複数のCPU回路を搭載している機種もありますが、せいぜい2つ、多くて4つが現在の技術では限界のようです。

人間の脳も、当然ですが同時に複数の処理をこなせるようになっています。こちらは本当に複数の処理を別々の脳の部位で行っているからで、神経間の情報伝達は、実は電気信号に比べると比較にならないほど遅いものの、かくも複雑な処理を難なくこなせています。

そして、現存のコンピュータと人間の脳の違いは、この並列処理性にこそあるのではないかと思っています。

昔のSF作家が夢見た、人間の代わりに働いてくれるロボットや人間のように言葉を操るコンピュータを実現させるには、もちろんさまざまな困難が想定されますが、この並列処理性は第一に解決されるべき問題でしょう。

そこで「メガコア」CPU、つまり数万単位のCPU回路が内部で協働して働くというハードウェアの登場が待たれるわけですが、もしそれが実現したならソフトウェアの方も、特にオペレーティングシステムは、設計思想を根本的に改めなくてはならなくなってくるでしょう。プロセスやジョブに1つに1コア丸ごと割り当てるのは分かりやすく単純な例ですが、現在でも1CPUで複数のジョブを(見かけ上は)処理できているのですから、これは少々無駄が多い。そうではなく、プロセスやジョブを脳細胞の1つと考えて、それらの間でプロセス間通信を行うことにより、人間の脳をシミュレートする、という使い方の方が興味をそそられます。

脳細胞1つあたりが処理する情報は極めて限られたものですが、人間の脳ではそれが140億個ほど集まっており、よく言われるように、一生のうち実際に使われるのはそのごく一部ということですので、多めに見積もって10%が使われるとして、約14億個のプロセスが相互に通信できる仕組みを作ることができれば、あるいは人間らしきものが生まれてくるのかもしれません。もっと機能を絞り込んだものであれば、メガコアと言わずキロコアくらいのCPUでも実現できる可能性はあります。

ハードウェアも脳神経学も素人の私ですが、こうしたことに想像をめぐらせるのは楽しいものです。

世のニートたちよ、安心しろ。総理はお前らの仲間だぞ!

Posted on : 14-12-2009 | By : sino | In : 雑考

鳩山総理の政治献金問題について、ぜひとも言っておきたいので書かせていただきます。

いやぁ、月々1500万円のお小遣いってのも豪気ですよねぇ。www さすが一国の総理ともなると我々庶民とは桁が違いますな。

私も親と同居しているせいか、妹からは「ニート」呼ばわりされて不愉快な思いをしていたのですが、鳩山総理もお仲間だったとはついぞ知りませんでした。

最初は「身内でお金を回している(自分の財産使っている)んだから、さほど問題ないんじゃないの」と思っていたこの問題ですが、それじゃあ世のニート達が浮かばれないと思ってキーボードを叩くことにしました。

これからは「鳩山・ニート・内閣」「鳩山・ニート・首相」「鳩山・ニート・政権」と間に「ニート」という言葉をはさんで呼んであげましょう。

天津(鴨川含む)と国の銃士たち

Posted on : 04-12-2009 | By : sino | In : 地域社会, 経営道, 雑考

アレクサンドル・デュマの名作「三銃士」を先日読み終えました。

いやー面白かった。久しく古典を読んでいなかったので、その意味でも新鮮ではありました。NHKの人形劇はきっと子供向けにアレンジされているのでしょうが、原作は十分大人でも満足できます。というより、むしろ子供向けではないです。

で、思わずにはいられませんでしたね、「俺は果たしてダルタニャンになれるだろうか」と。

少し解説しておくと、「銃士」というのは当時のフランス王のための近衛兵のことで、普及しつつあった銃を使うのでこの名で呼ばれました。ダルタニャンはその銃士の部隊、銃士隊に入隊することを夢見てガスコーニュからはるばるパリまで出張ってきた、まだ子供とも言えるくらいの若者で、アトス、ポルトス、アラミスの先輩三銃士と邂逅し、数々の困難を痛快に乗り越えていく、というのが大筋です。時代背景としては、フランス革命前夜、世界が中世から近代へ移り変わるちょうどその境目のころになります。

それで思ったわけです、「果たして俺と死地を共にしてくれるほどの仲間はあるだろうか」と。

でも、すぐに思い直しました。「俺のために死ぬ馬鹿はいないだろうが、銃士が王や王妃やトレヴィル殿に捧げているに匹敵する愛を、地域に対して抱いている現代版の銃士ならいくらでもいるではないか」と。

一朝火が出れば、死ぬ気で火事場に飛び込んでいく消防団、自らの理想のために労苦を厭わず社会貢献に邁進している青年会議所、地域の催しごとのために仕事を振ってやりとげる青年団、その他、その他・・・。

義ですね、漢(おとこ)たちの世界ですねぇ。気の効かない私ごときが何をしているわけでもありませんが、末席に加えられてその勇姿を目の当たりにするにつけ、いつも惚れさせられてます。

先日、消防の手入れをサボって、東京の議員会館というところに行ってきました。議員会館というのは、あの国会議員の先生方が政務を行う事務所が集まっている建物のことです。言うまでもなく私一人で乗り込んで行ったわけではありませんで、齋藤元県議に連れられて、天津小湊地区への光ファイバー誘致活動のご説明とご協力を請うためにうかがったのですが、いろいろ得ることの多い一日でありました。

いやはや、びっくりましたねぇ。何が驚いたといって、会う人会う人の頭のよさそうなこと。実際ある議員先生の秘書の方にもお会いしてお話したのですが、ああもやすやすとこちらの言いたいことが伝わるという経験は久しく、というより初めてだったかもしれません。田舎インテリを気取っていた自分が恥ずかしくなりましたよ。世の中にはやはり上がいるものです。

頭の切れもさることながら、彼らの気概というか、天下国家のために働いているんだという信念のようなものが、話をしていてひしひしと伝わってきました。それに比べて自分はなんと卑小な存在なのだろう、と。

天津には天津の銃士がいて、国には国の銃士がいる。そうして世の中が動いていることを知って、社会というものにより親しみを感じた一日でした。

「ゲーム」にハマっている青少年諸君に物申す

Posted on : 25-11-2009 | By : sino | In : 雑考

悲しいことに俺は来年34歳になる、世間的には正真正銘のオッサンだ。君たちの仲間として発言できないことが先ずもって悲しいが、敢えて上から目線でがっつり言わせていただく。

ゲームにある程度ハマるのもいいと思う。友達もやってるだろうし、一人だけやってないというのは寂しいだろう。俺だって小学校の頃はファミコンに熱中して、それが原因で眼鏡をかけるまでになった。それから、沢山本も読んだ。だから虚構の世界に心踊らせる楽しみがわからないわけでもない。

けど、ゲームに飽きたらちょっとまわりを見渡して欲しい。コンピュータを使えば、こんなの簡単にできるのに、ってことが見当たらないかい?なんで現実の世界はこうなっていないんだろう?と思うことってないかい?それだけゲーム機に熱中しる君たちだもの、何か一つでも気づくことがあってもいいと俺は思うんだ。

大人になると自分でお金を稼がなきゃいけなくなるけど、それは全て「現実の問題にどう対処して結果を出したか」ってことの評価で決まる。1時間かけて10しかできなかったことを、君のやりかたなら100できるようになったとしたら、それはもう立派な仕事だ。今までなら事務員を雇って対処させなければならなかったことをコンピュータにやらせるようにできれば、それもそれで立派な仕事だ。

ラビリンスの奥深くに眠るドラゴンを倒すためのアイテムを入手することに血筋を上げるのもいいだろう。でも、お母さんやお父さんが日々追われている仕事をいくらか楽にしてあげることができたら、もっと素晴らしいことじゃないかな。自分の親だけじゃなく、世の中にゴマンとある非能率的な部分を見つけて、勇者の剣を振るうように問題をズバっと解決できたら、君はもう現実世界のヒーローだ。

俺は現実の世界で起きている問題の解決手段を考えることで幾ばくかのお金を稼いでいるけど、これって最高に気持ちいいぜ。なんたって顧客には感謝されるし、お金は払ってもらえるし、誰にもできることじゃないから、たいていのことは頼まれる。頼まれた以上は何らかの解決手段をひねり出さなきゃいけないけど、まあそれはその時になったら考えればいいことだ。

ゲームの架空の戦闘よりも、現実での戦いの方がスリルも満足度も味わえるよ、きっと。

だから、そんなつまらない世界にハマってないで、社会に出たときに振るえるように、今から頭の中で大剣を研いでおけ。勉強という名の砥石はそのためにあるんだからさ。

M.H.S. 始動

Posted on : 10-11-2009 | By : sino | In : 雑考

M.H.S. とは Mission Hoarse Shooting の略です。「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」の成語から。何が馬で何が将かはご想像におまかせします。

ところで、この「将を射んと・・・」と言う言葉ですが、てっきり孫子の兵法か何かに書かれているものだとばかり思っていました。ところが元々の出所を調べてみると漢詩で有名な杜甫なんですね。杜甫にしては雅風に欠ける血なまぐさいことを言っているなあと思ってもう少し調べてみると、どうも人口に膾炙している意味ともともとの文脈は違うらしいことが分かりました。

普通、この言葉は「最終的な目標を遂げるためには周囲から攻めかかるべし」という意味で使われます。分かりやすい例としては、ガールフレンドを作ろうとおもったらその友達から仲良くなれ、というのがそれですね。

でも、杜甫の五言律詩「前出塞」にはこうあります。

挽弓當挽強  弓を挽かば當に強きを挽くべし
用箭當用長  箭を用ひなば當に長きを用ふべし
射人先射馬  人を射らば先づ馬を射るべし
擒賊先擒王  賊を擒にせんとすれば先づ王を擒にすべし
殺人亦有限  人を殺すには亦限り有り
列國自有疆  國を列(た)つるには自づから疆有り
苟能製侵陵  苟くも能く侵陵を製せば
豈在多殺傷  豈に多く殺傷するに在らんや

【現代語訳】
弓を引こうとすれば強い弓を引け、矢を射ようとすれば長い矢を射よ、人を射ようとすればまず馬を射よ、敵を捕虜にしようとすればまず王を捕虜にせよ

人を殺すにも限りがある、国を立てるには国境というものがある、いやしくも敵の侵略を防げれば、多くの殺傷をするには及ばない

つまり、「相手を倒すのが目的ならば、馬を倒して戦闘能力を奪いさえすればいいではないか。いたづらに人間を殺すべきではない」というのが杜甫の言いたかったことのようです。これなら、文化人の名にふさわしい、誠に人文的とも言える言動です。

孫子も、戦をするにあたって最上の策は「戦わずして勝つ」ことだと言っています。無闇に兵を起こして戦をすれば、よしんば勝ったとしても、田地は荒れ、民は疲弊し、被征服民の恨みを買い、国力に少なからず悪い影響を与えることは免れない。であるから、圧倒的な優位を見せつけ、相手に争う気を起こさせないことが最良の策である、ということです。

喜ばしいことに、このところ宇宙開発の面で日本のロケットミッションが成功を収めつづけています。かなり質量のある宇宙ステーション補給機(HTV)の輸送も先日、無事成功しました。

片や、国内では原子力発電が営々と、当たり前のように運用されています。素人考えですが、原子力エネルギーを少しずつ調節しながら引き出す技術は、一挙に爆発させるよりも技術的には難しいことなのではないでしょうか。

見方によっては、日本は軍事転用可能な核開発技術をすでに手に入れているのかもしれません。そして、それをあくまで平和的に利用していることを世界に訴えるのは、孫子の言う所の「戦わずして勝つ」ことになり、国民の一人として大変誇らしい気分になります。

私がブログを書いている理由

Posted on : 28-10-2009 | By : sino | In : 経営道, 雑考

前にも似たようなことを書いた気がするのですが、大事なことなので、また書かせていただきます。

起業するとき、当然ですが、IT企業としてやっていくからには自社のホームページがなければ嘘だと思いました。ただ、会社概要と社長からのご挨拶、会社の地図だけが載っているだけのものでは、あまりにもつまらない。そこで、当時流行っていたブログというものに目をつけたわけですが、果たして何を書いたらいいのか、書いたところで読んでくれる人がいるのか、甚だ心許ないものがありました。

そんなときある本(書名失念)で「ブログはあなたのファンを作るためのツールです」という旨のことが書かれていたのを読んで、「なるほど!」と思いました。この一言を知っただけでもその本を買った価値がある、と。

幸い、弊社は社長一人でやっている会社ですから、私が恥をかく覚悟さえ決めれば部下に迷惑をかけるわけでもありませんし、そもそもこの手の仕事というのは一体何をしているのか非常に分かりにくい。そこのところを取り上げていけば、面白がって読んでくれる人もいるかもしれない、と考えました。だいたいが、こんな田舎でITで食っていこうというスタンス自体ユニークなはずです。

というわけで、半ば仕事のうちと思って書き始めたわけですが、さらに意外だったのは地元で読んでくれている人が結構いたということです。それなら地元のネタを取り上げれば喜んでくれるだろうというわけで、仕事のことだけでなく青年、消防のことなども書くようになりました。

今でこそ「ビジネスブログ」「社長ブログ」が当たり前のように言われていますけれども、私が始めた頃はブログというとプライベートな日記をネットで匿名公開しているだけの、誰が書いたかわからない、他人が読んでも正直あまり面白くないものが主流でした。ランチブログなんてネット資源の無駄だと今でも思っています。

長々と前置きをしましたが(え、前置きなのかよw)、今日、NHKラジオ語学番組キャプチャツールをお使いいただいている方からお便りをいただきまして、私信を公開するのは失礼にあたるとは重々承知しながら、ここにご紹介させていただきます。

高梨 様 へ

高梨様は私が尊敬すべき方の中のお1人です。
お会いした事もございませんし、これからお会いすることも多分ないとも思いますが、貴兄のホームページを拝見してその人となりを好く伺う事が出来るからです。

なんだか引用してから自分が恥ずかしくなるくらいのお褒めの言葉ですが(笑)、ご注意いただきたいのは「ホームページを拝見してその人となりを・・・」とおっしゃっていただいていることです。そう、私がブログを書いているのは私自身および弊社のことをよく知っていただくために他なりません。その評価が肯定的なものになるか否定的なものになるかは場合や読まれた方によってもちろん異なるでしょうけれども、ひとまずは自分の意図するところは達成されているのかな、とこのお便りから判断することができました。

自分の考えていることを明快な文章で表現するのは、最初のうちは必ずしも簡単ではありませんが、やってみるだけの価値は十分あると思います。ブログを始めたけれども何を書いたらいいかわからない、という方の参考になればと思い、書かせていただきました。

「地図が読めない女」は本当だった・・・。orz

Posted on : 27-10-2009 | By : sino | In : 地域社会, 雑考

流行に乗り遅れるのが大好きな私は、「ベストセラー」として宣伝されている本をめったに読みません。流行から何年か経って、本屋の在庫から切れかける頃合いを見計らって読むことにしています。

「話を聞かない男 地図を読めない女」という本が何年も前に流行りましたが、最近、その通りかもしれないと思わされる出来事に出くわしたので、書いてみたいと思います。

このブログでも何回も言及していますが、週に一回、中央公民館で日本語を教えています。で、今私が受け持っているクラス(といっても4人ほど)は生徒がたまたま女性ばかりです。

先週の金曜のこと、「~と、○○になります」と言う文型を教えていました。例えば「このボタンを押すとジュースが出ます」「夏が来ると、暑くなります」「その交差点を右に曲がると、銀行があります。」というような文を教えるわけです。最後の例は、地図を使えば簡単に例文ができると思ったので、単純な地図を描いて、「○○はどこにありますか?」と尋ね、その答えを言わせるようにしました。

ところが、ところが。

私の生徒たちは、驚くなかれ、その地図をほとんど「読めない」のです。私が提示したのは、真ん中に十字路があって、その周囲に建物を配置しただけの、単純極まりないものなのですが、それでも彼女たちは地図の解読に四苦八苦し、地図の描かれた紙を自分が進む方に合わせて回して初めて「その交差点を右に曲がると、左にスーパーがあります」と答えてくれるのでした。いやぁ、その難儀のしかたといったら見ていて滑稽なくらいでした。言っておきますが、彼女たちは日本語の「右」と「左」を十分区別できますし、祖国では普通の教育を受け、あまつさえ「学習委員」という日本でいう学級委員長のようなこともしていたという優秀な頭脳の持ち主ばかりです。

そんな彼女たちにあってこの体たらくは何なのか、と思わずにはいられませんでした。

そこで、思い当たったのが冒頭の「話を聞かない男 地図を読めない女」です。これ、前半はともかくとして、後半は嘘だと思っていました。女性が地図を読めないのなら、どんなに精度のいい、わかりやすい地図を作っても人類の50%にしか貢献できないことになります。そんな馬鹿な話があるわけがない、と。

私はほとんど病的な方向音痴ですが、地図は読めます。というより、方向音痴になったそもそもの原因が、地図があればどこに行っても迷うことはない、と人生の早い段階で悟ってしまったことにあります。それ以降は積極的に道を覚えることはしなくなり、つまり、地図が読み方を覚えてしまったがために、方向音痴になったわけです。そんな私にとってGoogleケータイが福音なのは言うまでもありません。

まあ私の話はどうでもいいとして、実際の話、女性にエスコートされてデートしたことなんて何回もありますし、女性の方が方向感覚は鋭いのかもなー、くらいに思っていました。そんな彼女たちが「地図が読めない」わけがない、と。

まあもちろん「私は読めるわよ!」と憤慨されている方もいるかもしれません。そういう人が実際にいることは百も承知です。ですが、思い起こしてみると、私の知り合いの女性のうち「地図を読めている」と断言できる人は驚くほど少ないのです。

さきほど「エスコートされて」と書きましたが、その場合、たいていは彼女たちの生活圏内だったり、遊び場だったり、職場に近かったり、いずれにせよ、よく見知っているテリトリーになります。「どこそこに行ったことがないから今度行きましょう」というわけでは決してありません。そして、女性が見知らぬ土地を訪れるときは、必ずといっていいほどガイドを雇うなりツアーに参加するなどして、絶対に道に迷わない算段をしてから出かけるのです。見知らぬ土地を一人で逍遥してみたい、と言う女性はドラマの中には出てくるかもしれませんが、現実にはちょっといそうにありません。

嘘だと思うなら、身近な女性に最寄りの駅から自宅までの地図を描かせてみてください。きっと驚くと思いますよ。


ところで、その「話を聞かない男 地図が読めない女」という本ですが、まさか市の図書館にあるとは思わず、本屋で探して見ましたが、見当たりませんでした。が、ネットで検索してみると図書館にきちんと蔵書されているではありませんか。中身を読んでいないので断言はできませんが、タイトルから推してどこぞのフェミニストなら焚書目録のトップにあげたい本なのではないでしょうかね。その点で、市立図書館の蔵書ポリシーは誠に大衆迎合的というか、ニーズによく応えているというか、いずれにせよ市民の感覚と離れておらず、大変よろしいと思います。

進化論とポケモン批判

Posted on : 26-09-2009 | By : sino | In : 雑考

いつのことだったか正確に思い出せないのですが、たしか小学校低学年の頃、家にあった図鑑を眺めていて、「進化」という概念を啓示のように理解したときの感覚は未だに忘れることができません。とはいえ実際のところは、「生物は単純なものから複雑なものへ形を変えていった」という事実を理解したということであり、無理もありませんが、ラマルク主義(獲得形質は遺伝する)的な考えにはまっていました。つまりキリンの首はキリンのご先祖様が一生懸命首を伸ばしていたから長くなった、というアレです。私は小さな進化論者ではあったかもしれませんが、小さなダーウィニストではありませんでした。

その「発見」をした後、どちらが言い出したのか忘れましたが、「マンモスの牙はなぜあんなに長いのか」という点について父とささやかな論争が勃発し、それは今になっても決着を見ていません。(笑

私「マンモスの牙があんなに長いのは、きっと何かに使っていたからだよ。もともとは短かったのが進化して長くなったんだ。」
父「馬鹿なことを言うな。何かに使っていたら磨り減るはずだろう。あんなに長くなるまで伸ばせたのは、使わなかったからに決まってるじゃないか。」

以来、父をなんとしてでも説得したくて、生物の進化についていろいろな本を読み漁ってはいるのですが、これという結論には至っていません。

ただし、結論にこそ至っていないものの、その過程で実に様々なことが分かりました。例えば、先に挙げたラマルク主義は間違っていること、進化は小さな変異が膨大な時間の中で淘汰されることによって起こっていること、人類自身ももちろん進化の産物であり、動物の一種であること、むしろ人類はこの世界では新参者であること、などなどなど・・・。その過程で分かったことはどれも新鮮で、わくわくさせられ、どんな神話よりもスケールが大きく、興味深いものでした。

ところで最近、テレビのチャンネルを回していたら「ポケモン」をやっていまして、なんとその中では、個体が世代を経ることなく「進化」してしまうんですね。まあポケモンの番(つがい)の生殖シーンを見せろとまではいいませんが、もそっとこう「進化には想像を絶するほどの長い時間がかかる」ことを暗喩するシナリオはできないものかと思うんです。それに、進化の過程で生まれた実在した生物に比べ、ポケモンたちがなんとチンケで想像力に欠け、良識にがんじがらめのデフォルメを施されていることか。ポケモンが何種類あるのか知りませんが、それらが束になってかかっても、アノマロカリス一匹に敵わないでしょう。

私にもし子供がいたら、まがい物のデフォルメされたチンケでやたら好戦的な空想上の生物よりは、はるかに迫力がありこの世に実在し進化による洗練されたデザインの生物に触れさせることのほうを、迷わず選ぶでしょう。例えそれが「今」いなくても、それでも種は絶滅することもある、むしろこの世に生まれたほぼ全ての種が絶滅しているという見方によっては冷徹な事実を学ばせたほうが、より教育的価値はあると思うのですがどうでしょうね。