馬鹿とは言わないが、知性の欠落した中国批判について

WBCでは日本を熱く応援し、自国の国旗には敬意を表し、抵抗を感じることなく国歌を歌う、標準的な愛国者として一言いっとく。今までいろいろな中国批判を見聞きしてきましたが、この「“中国”という国」という記事は、説得力・文章の巧拙・問題に対する態度などの視点から見て、まあ日本語として文法的には正しい文章にはなっているレベルとは言えますが、それ以上のものでは何一つといってないでしょう。端的に言えば「視点が浅薄かつ高所的過ぎ、知性のかけらも感じられない」ということになるでしょうか。むやみに断定的なのも気になります。

例えば、

今回の中国の姿勢を見ると、まさに中華思想そのものである。

中国という国は全く信用がおけない。
それもそのはず。
中国四千年の歴史というのは誤りであり、中国大陸という土地において四千年以上にわたって、民族や王朝同士が互いを殺戮し合い、征服し合ってきたのだから、日本人の常識は通用しないのだろう。

とありますが、ではそうではない国が世界にどれだけあるでしょうか?ヨーロッパにおいても、史実として残っているだけでも少なくとも2000年以上にわたって「民族や王朝同士が互いを殺戮し合い、征服し合ってきた」歴史がありますが、ヨーロッパ諸国が「全く信用がおけない」ことになるのかな?南北両アメリカ大陸なんかは、コーカソイドによって固有民族が迫い立てられ、強制労働させられ、搾取されてきたんだぜ?まあそれはおいても、「中国=中華思想の国」ってのは、いくらなんでもステレオタイプが過ぎるでしょう。2才になるうちの甥っ子でも、もうちょっと知恵のあることを言えそうだ。w 察するに神道系の座学会かなんかで聞きかじった主張なんでしょうが、もう少し精査した方がいいと思うよ。

保守系論者の間ではしばしば「中国四千年の歴史というのは誤り」という主張そして同じくらいの頻度で「我が国皇紀2600年の正統性(?)」が見受けられますが、ちょっとこれについて言及しておきます。例えば中国最後の王朝「清」は、満州族の愛新覚羅氏が打ち立てた国です。つまり少数民族である満州族がそれまでの漢人王朝明に取って代って、漢民族が大多数を占める中国地域の支配を始めました。

ただし、中国の歴史ではよくあることですが、支配者であるはずの清王族の方が次第に「漢化」されていき、王朝末期には満州語を話せる王族はほとんどいなかったと言われています。確かに男子の辮髪強制など文化の面で全く専制的でなかったとは言えませんが、その程度の強制であれば、同時代の我が国においても「生類憐みの令」「質素倹約令」等、類するものはありました。そして、驚くべきは、中国の史書は新王朝によって前王朝のものが書かれていたということです。つまり明朝の歴史について書いたのは、取って代った清朝の官僚たちでした。

というようなわけで、「中国◯千年の歴史」という言い方もあながち間違ってはいないと、私は考えているのですがいかがでしょうか。むしろ、2,600年(?)もの間、天皇が男子一系で存続してきた我が国の場合の方が、よほど稀有な例で、世界に類を見ません。「日本人の常識」が通用しないのは中国だけでなく、世界中について言えるでしょう。

中国的共産主義によって国家は成り立っているが、経済面では唯物主義、超資本主義である。
中国人の多くの考え方も物質至上主義的なところが大きい。

また随分と物々しくのたまったもんですな。(苦笑) その割に理由や根拠を一つも挙げず、この言い切り方、断定口調。主観に囚われきっていることに気づいておられるだろうか?そうまで言いきれるあなたは、あの国の何を知っているというのか。

しかし、私が5年以上前から指摘しているように、中国は必ず大きな壁にぶち当たる。
物質主義は必ずや崩壊するときが来る。
そのとき、かたちのないところに新たな価値を見出せなければ、おそらく中国という国家は崩壊するであろう。
否、すでに崩壊は始まっているかもしれない。

で、つまるところこの5年以上の期間に渡ってその指摘とやらは当たらなかったわけだね?w まあ期限を設けなければどんな予言だってできるわな。「太陽はいずれ必ずや爆発する!(数十億年後にはきっと…)」

という意地の悪い指摘はさておき、私は中国人とだいたい週に一度会っているのですが、そこで受ける印象は、「マルクス・レーニン主義」「共産主義」「唯物主義」という言葉からは、かなり隔たりがあります。むしろ彼らの宗教観は、迷信深いというか、なんでもありがたがっていた江戸時代の庶民のそれに近いものがあるように思われます。彼らが首に下げていた「大仏」は、その表情が日本の「大黒天」に驚くほど似ていました。また、横浜の中華街に連れていった生徒の中には「天帝」に敬虔な祈りを捧げている人もありました。

附言すると「精神vs物質」という二元論的な見方自体、ニーチェ辺りに言わせれば西洋哲学に毒されている証拠で、和を以て尊しと為す我が国の伝統文化とは相容れないように思われますが如何?

ちなみに尖閣諸島問題について。
一番の解決方法は米軍基地を作り、駐留してもらうことだろう。
自衛隊だと中国に対して刺激が強すぎる。
せっかく日米安保で守ってもらっているのならば、米軍を活用しない手はない。
ついでに日米共同で油田開発でもしてはどうだろうか。
アメリカもこの提案には乗ってくるのではないだろうか。

あのね、アメリカのよき父母たちに「あなたのお子さんに俺達のちっぽけな領島を命懸けで守ってもらいます。あ、ちなみに俺達は自国の軍隊さえ出しませんからそのつもりで♪」って言うつもりですか? 確かに俺は実利も重視するけど、さすがにそこまでセコくはなれない。「共同で油田開発」って、そういう発想こそを「唯物主義」って言うんじゃないの!?

さて、普段なら宮さま育ちの白ネギが何を言ったところで黙殺するだけですし、そもそも普段注意を払っていないのですが、今回はあまりに目に余ったのと、突っ込み所満載だったので大人げなく噛みつかせていただきました。

実はこの文章、かなり前に書き始めたのですが、「一身上の都合により」、今更ながら晒すことになってしまいました。遅延をお詫びします。

1 Comment

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中国経済の失敗は、
中国経済とイスラム経済とを比較すると、
実に面白いことがわかります。

それぞれが実益主義として歩むのであれば、
取引可能性が高くなるほど、
取引失敗による損失を懸念する必要が薄れ、
信用性が高い会社を選ぶ機会が増える結果、
信用性が疑われる様なやり方を行う企業は、
世界市場として見る場合に、
取引相手として見られる機会が減ってしまうのが、
その経済の衰えになった要因なのだと私は思います。

これは国による経済行動だけでなく、
個人の経済行動も同様にいえるように思います。
例えば、ある問題が起きたとされる企業はその信用性が問われます。
そして、個人が別の会社を選ぶ様になった場合、
利益は信用性と同様に損なわれることになります。

ただ、ネットで展開される企業は、
会社、企業など目に見えない商品であるため、
プロバガンダや、不買・購買工作が行いやすい状況であるため、
信用性という既存の概念が成立しづらい状況になってしまうのは、
ネット上で展開される企業の問題の1つである様に思います。

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