SF作家も予想しえなかったもの。それは・・・

Posted on : 16-09-2009 | By : sino | In : Hacking, 読書道, 雑考

SF小説のよくある主題として、「将来、こんな機械・発明・社会ができたら、人間はどうなるか」というものがあります。少子高齢化が問題となっている現代日本ではちょっと想像しにくいのですが、つい20年くらい前のSF作家が共通して取り上げている主題は「このまま人口が増え、工業化が進んだらどうなるか」というものでした。SFというと宇宙人とか光線銃が飛び交う子供向けの読み物と思われがちですが、意外と現実的で身近な主題も取り上げています。

で、アイザック・アシモフやレイ・ブラッドベリ、ロバート・A・ハインライン、アーサー・C・クラーク、日本なら星新一や筒井康隆、小松左京といった「古株の」SF作家たちもいろいろ未来について予想し、それに基づいた小説を発表しているのですが、彼らの本をかなりよく読んでいるつもりの私でも、未だに出くわさない主題が一つだけあります。

私が書いている時点でだいたい予想はつくでしょうが、そう、現代のいわゆる「IT社会」を予想したSF作家がいないのです。

もちろん「未来のコンピュータ」はこれでもかというくらい出てきます。もっともそれも必ずしも現実と合致してはいませんが。彼らの描くコンピュータはたいてい大型で、保守に多数の人員を要し、局所的に、つまり少数の場所で全ての仕事をこなすようになっています。

ブラッドベリの「ネット嫌い」は有名ですし、彼らが計算機というものに精通していないので仕方ないのかもしれませんが、それでもヒントはあったはずなのです。

インターネットは元々ARPA Netという「軍事利用のために」構築されたコンピュータネットワークが、最初は教育目的に、さらに民間利用に開放されてきたという、あまり知られていない歴史を持っています。

なぜ軍事目的でコンピュータを結ぶ必要があったかというと、「熱核戦争勃発時、情報中枢に支障をきたさないため」というのがその理由でした。手短に言うと、インターネットは「核攻撃を受けても大丈夫なように」作られたのです。実際、インターネットで使われているプロトコルは、一ヶ所で障害が起きてもそこを迂回して情報をやりとりされるように作られています。

で、核兵器の実使用で終結をみた先の大戦を経験し、コンピュータがだんだん実用化され始めてきた時代を生きたSF作家なら、「もしコンピュータ施設が核攻撃を受けたらどうなるか」という発想があってもいいと思うのですが、どうもそういう着想をした作家はいないようです。もしかしたら私が知らないだけかもしれませんし、アシモフなどは「真空の空に帆をあげて」という科学エッセイの中で、ほぼ現在の電子メールに近いものを予想していますが、ワールド・ワイド・ウェブや検索エンジン、パーソナル・コンピュータを予想した人はいませんでした。まあ小説のテーマにするには卑近すぎるのかもしれませんけれども、それにしても誰か一人くらいは予想していてもいいのではないかとも思うのです。

一つには情報技術というものがあまりにも急速に発展してきたためかもしれません。ハードウェアの加速度的な進歩は言うに及ばず、ソフトウェアの面でも革新的な設計思想が年々発表されています。しかし、しばしば「革命」と称されるほどに衆目を集めるこの分野ですが、実際には旧来からあった技術を寄せ集めてできあがっています。さらに言えばインターネットの素晴らしいところは、決して一社や一国に独占された技術に依存していないという点なのです。ビジネスの世界では「差別化」という言葉が当たり前に使われていますが、ITの世界には当てはまらない、と私は思っています。最初から非独占的な、誰でも参画できるなんでもありの世界なのですから、独占しようというほうが無理だと思います。

もしかしたら、SF作家が今のIT社会を予想できなかった原因は、この非独占性にあるのかもしれません。

ところで私にはSF小説のネタになる(と思える)アイデアがあるのですが、ディテールはおろかプロットも描けないでいます。ときどき暇なときにひねくり回して遊んでいます。もし形になったら非独占的なライセンスで発表したいと思います。

言語学という学問について

Posted on : 22-08-2009 | By : sino | In : 外国語道, 雑考

数学や物理学、生物学という学問の名前なら、みなさん一度は聞いたことはあるでしょう。でも、「言語学」という学問についてはどうでしょうか?非常にしばしば、いわゆる「語学(特定の外国語を話せるようになるための実学)」と混同されるのですが、実は似ているようで異なります。

なんでこんなことを書いているかというと、昨日書いたように私がいろいろな外国語を学んでいる理由として、一つにはこの言語学のフィールドワークという意味があるからです。普遍文法というものがもしあるならそれを発見してみたいのです。

先ほども述べたように、言語学は語学ではありません。私が学生のときに籍を置いていたのは、「外国語学部英語学科」であり、「外国文学部英文学部」ではないのです。どういう違いがあるかというと、前者は英語という言語そのものについての研究をする(英語はどのように成り立ってきたか、シェークスピアの時代と現代英語はどう違うか)のに対し、後者は英語で書かれた文学作品について論じる学問(シェークスピアがあれほど様々な社会階層で使われていた用語に通じていたのはなぜか)であるということです。

で、長々と前置きしましたが、この言語学という分野、見方によってはこれからかなりアツいんではないかと思い、紹介してみたいと思いました。

話をわかりやすくするために端的な例を挙げましょう。

人間は今までいろいろな種類の機械を作ってきました。地面を走るもの、空を飛ぶもの、計算を瞬時にこなすもの、音楽を流すもの、映像を見せるもの、部屋を温めるもの、逆に冷やすもの、などなどなど・・・。ですが、未だに実現していないのは「言葉を話す機械」です。急いで付け加えておきますが、ここでいう「言葉を話す機械」とは、話し相手の言っている意味を理解し、相手や場に即した受け答えができるもののことです。

確かにそれに近い真似事をするロボットはあります。人の接近を感知し「いらっしゃいませ」と話しかける機械もあるにはあります(そしてそのような自動販売機の方が「人間より愛想がある」という理由で好んで買う人もいることも知っています)。が、それは人間相手の「会話」からはほど遠く、せいぜい少し賢いテープレコーダーといったところでしょう。

今のところ、計算機に自分の思う仕事をさせるには、人間のほうが機械に合わせて命令を書く必要があります。私が言っているのは、もちろん各種プログラミング言語のことです。そして、プログラマーが職業として成り立っているのは、この機械用の言葉を曲がりなりにも操れるからに他なりません。

さて、ここで言語学の研究が十分進んでいれば、人間の言葉を機械の言葉に翻訳するのはきっと訳もないことでしょう。残念ながらそうなっていないのは、言語学者の怠慢というよりは、そもそもこの分野が「哲学」と呼ばれるすべての学問の母親から最近独り立ちしたばかりの学問だから、という理由に依ります。

ですが、言葉を話す機械こそ生まれていないものの、世の技術者はこのよくわかっていない言語というものに対してかなりよく対応していると思います。かな漢字変換システム然り、検索エンジン然り。実際、形態素解析なんかさせてみると、言葉を話す機械まであともう少し、という気にさせられます。

ただ、熱力学の法則のような物理学的に普遍的な法則が、蒸気機関の熱効率を研究しているときに発見されたように、言語学に普遍的な法則が、逆にITの分野から見つかるかもしれません。いずれにせよ、言語学とITは十分役に立ち、かつ私の知る限り最もお金にもなりそうな組み合わせです。

GPSケータイから見えてくる未来

Posted on : 15-08-2009 | By : sino | In : 雑考

神ならぬ身には未来がどうなるかなどということはなかなか見通せるものではありませんが、それでも今現実にある技術から未来を想像してみるのは楽しいものです。

さて、使っている方も多いと思いますが、最近の携帯電話にはGPS機能がついていて、自分が今どこにいるかを地図で確認することができます。私も最近携帯を買い換えたので、やっと使えるようになりました。

これを手にしてまず思ったのは、なるほど「ピンポイント爆撃」が可能なわけだ、ということでした。標的の正確な緯度・経度をミサイルに教えれば、後は衛星とのやりとりを元に誤差10mくらいの精度で簡単に爆撃できます(もちろん途中で打ち落とされなければの話ですが。)民生用の携帯でこれだけの精度を使えるのなら軍事用GPSではもっと高精度で可能でしょう。

まあ怖い話はこのくらいにして、私に見えた未来というのはもう少し平和的なものです。

FAX・電子メール全盛の現代においても、やはり紙による郵便配達というのは必要なものです。信書や公文書は言うに及ばず、年賀状だってまだまだ紙の方が主流でしょう。ただ、今の郵便システムに問題があるとすれば配達を人が行っているということでしょう。当然人件費もかさみますし、これを機械化できないか、と考えるのは自然な流れといえます。

そこで、携帯に搭載できるまでに小型化されたGPSと、ロボットヘリを組み合わせて郵便局から自動で配達させるというのはどうでしょうね。各家庭の郵便受けは玄関ではなく屋根に設置するようにします。

交通渋滞もなんのその、年賀状の季節には郵便ヘリが市内の上空を乱舞する様が目に浮かぶようです。

問題があるとすれば、

  • まとまった郵便物を十分長い距離に渡って搬送できるロボットヘリの開発が可能かという点
  • 天候に左右されやすい点

などがあるかもしれませんが、これらは比較的克服しやすいのではないかと思います。

ゴタゴタも片付いたようですし、日本郵便西川社長、このアイデア買ってくれませんでしょうか?w

皆既日食についてちょっとだけ

Posted on : 22-07-2009 | By : sino | In : 雑考

今まさに皆既日食が始まろうとしているところですが、これって実は全く稀有な現象なんです。いや、地球上で珍しいということではなく、全宇宙的に見て。

地球の大きさに比して月はかなりの大きさで、この比率をもった惑星系は太陽系の中には他にありません。これがまず珍しい。他の惑星も衛星を従えてはいますが、惑星よりもかなり小さいんです。

そして、地球と月が形を成してから、月は地球から徐々に離れています。よってこの二天体が生まれて以来、月と太陽の見かけの大きさが一致するのは、この数万年以内のことなんです。つまりタイミング的にも今だけしか見られないということです。

将来、恒星間旅行が実現し、100箇所の恒星系に訪れることができたとして、同様の現象がありうるのは地球だけだったとしても私は驚かないでしょう。

そして、それだけ稀有な現象を観測できる知的生命体が地球だけに誕生したというのは偶然のなせるわざなのか、はたまた神の意志なのか。なんともロマンを感じさせますね。

塩野七生著「神の代理人」読中レビュー

Posted on : 22-07-2009 | By : sino | In : 地域社会, 読書道, 雑考

塩野七生さんといえば、イタリアの歴史小説を数多く上梓されていて、歯に衣着せぬ人物評が大変面白い人です。

ここに、世に賞めそやされる使命感に燃えた人間の持つ危険と誤りがある。たしかに彼らには、狭い意味での利己心はない。だが、高い使命のために一身を捧げると思いこんでいるために、迷いや疑いを持たないから、独善的狂信的になりやすい。それで現実を見失う。だから、やり方は大胆であっても、やるひとつひとつが不統一になるのである。結果は失敗に終る。

上の引用は16世紀、キリスト教会の頂点の座である法王を勤めたジュリオ二世という人物に対する著者の評価。ジュリオ二世は法王の権威、わかりやすく言うと法王領を守りたいがために、フランス、ドイツ、スペイン、ベネツィア共和国などの周辺諸外国をとっかえひっかえ「毒をもって毒を制す」的に利用しました。

名指しすることは控えさせていただきますが、私にもこれに当てはまる知人が一人います。彼の志の高さと熱意たるや文句のつけようのない立派なものなのですが、私から見るとやや現実離れしていて、もう少し腰を据えて取り組んだ方がいいのに、結果を求めて次のことに手を出すという感じで、どうも落ち着きが感じられない。

かく言う私も名前に似ず飽きっぽい性質なのですが、彼と違うのはそれを自覚しているという点です。志だってあるけれどもあまりそれを表に出すことはありませんし、また適度に利己的でもあります。早い話、「お金にならない仕事はしない」ということです。誤解のないように言っておくと「お金になりそうな仕事」はします。お金になりそうかどうかは自分の勘で判断するしかなく、往々にして外れることもあるのですが。(笑

特に、声高らかに自分たちのしていることを「すばらしい」「画期的」と評している集団は軽いカルトとさえ言えるかもしれません。普通だったら「ああすればよかった」「こうすればいいのに」と常に反省の目を自分たちに向けるものです。それができなくなっているというのは自己チェック機能が失われた証拠で、一種の老害でしょうね。

「仕事は何をしてるんですか?」

Posted on : 21-07-2009 | By : sino | In : 経営道, 雑考

例えば合コンとか、例えばお見合いとか、例えば飲みの席とかで、表題のようなことをよく聞かれるのですが、どう答えたらいいものか、いつも思案してしまいます。

「IT企業の社長してます」と言うのもアレなんで、最近は「計算機屋です」と答えるようにしています。一瞬意味がわからないようで、たいていは「?」マークが頭の上に浮かんだ表情をしてくれます。(笑

自分で言うのもなんですが、パソコンの納入、コード書き、サーバ&システム保守、ユーザサポートなどなど、個人でできる範囲のことはたいていやっていますね。ずっと前に、田舎のIT屋は町医者と同じで、内科も耳鼻科も皮膚科も外科もやらなくてはいけないというようなことを書きましたが、その姿勢は変わっていません。

私の知人は自分のことを「IT土方」と言っています。その人はスキルも知識もモチベーションも自分より数段勝っているのですが、「土方」と自称するあたり、カッコイイっすね。私は雇われる立場じゃないのでそうは言えませんけど。

私はこの世界にサーバ&システム管理者として入ったのですが、いつの間にかコードを書くようになっていましたし、こっちに帰ってきてからは他人の使っているコンピュータの面倒までみるようになりました。でもやっぱり年のせいかコードを書くのが年々億劫になっています。ただ、どう書いたら楽かは知っているので、書き出したら結構早いです。

田舎でこの手の仕事をしていて一番楽というか幸せに感じるのは「納期」や「締切り」が絶対ではないということです。誤解のないように言っておくと、納期がないわけではないんです。ただ、その決まり方がかなりゆるい(「夏になって忙しくなる前」とか「台風シーズンが来る前」とか)ですし、多少お客様をお待たせさせることになっても、都会で仕事をしているときほど大きな問題にはならない。それよりも大切なのは、「何か起きたときにすぐ対応できる」姿勢を示しておくことですね。電話一本ですぐサポートに回れるというのはかなり信用を得られるようで、好評をいただいています。

ビッグマウスを叩かせていただくと、弊社があるかないかで「鴨川の情報化の早さが10年違ってくる」と言われるような存在でありたいと思っています。

国の違いを実感するには

Posted on : 20-07-2009 | By : sino | In : 外国語道, 雑考

私は元々異文化大好き人間なので、日本から一歩も出たことがないにも関わらずいろいろな国の外国人とつきあいがあります。中国・韓国・イギリス・ア メリカetc… 国際人を気取るつもりは毛頭ありませんが、田舎暮らしをしていることを考えればまあまあ頑張っているほうではないでしょうか。

そんな私が最近不思議に思っていることがありまして、というのは「中国人はアメリカ人はいったい歴史の授業をどの辺りから始めるんだろう?」という ことです。商(殷)・周・秦・漢・・・と中国の統一王朝を覚えている人も多いかと思いますが、仮に商からだったとして、今調べたら「紀元前17世紀頃か ら」始まった国だそうです。紀元前17世紀ですよ。今からざっと3600年前ってことです。考古学上の実証は完成を見ていませんが、その前に夏(か)とい う王朝の実在性もかなり高くなっているとのことで、となると中国の歴史は紀元前2070年頃、今からほぼ4000年前から始まることになります。

唖然。皆さんが覚えている日本史で一番古い年号は何ですか?「無事故(645)で終わった大化の改新」じゃないでしょうか。私もそうです。で、そ れってたかだか今から1365年前のことです。まあ大化の改新が日本の始まりとは言えませんけれども、どう贔屓目に見ても、中国の学生はまともにやったら 日本の学生の2倍半は年号を覚えなければならない計算になります。果たしてこれが可能なのか?という疑問があります。

話は変わってアメリカの歴史授業について。皆さん知ってのとおりアメリカという国には様々な民族が共存しています。アングロサクソン、アイルランド 系、アフリカ系アメリカ人、ネイティブアメリカン(インディアン)、華僑、ロシア系、イタリア系、ドイツ系、そして最近富に人口比率を増やしているヒスパ ニック系。イスラム圏からの移住者もきっといるでしょう。

で、こんなに違う民族がいて、まともな歴史の授業なんてできるんかいな?と思ってしまいます。例えばコロンブスの「発見」以来、ヨーロッパからの移 住者が先住民族を排除しながら、もっとわかりやすく言うと虐殺しながら、自分たちの領域を広げてきたという事実があります。これなんか授業でどう取り上げ るんでしょうね。もっとわかり易く言えば、オバマ大統領が言及したように、つい最近まで有色人種に対する差別は公然と行われてきましたが、これなんかも授 業でどう説明するんでしょうか。きっと白人の先生と黒人の先生では教え方が違うのかもしれないですが、それは公平な教育と呼べるのでしょうか。

現イラクはメソポタミア文明発祥の地、つまり史上最古の文明が生まれた土地ですが、当時の人たちがアッラーに帰依していないことは明白です。代わり にアン、エンリル以下、日本の八百万の神にも負けないほどの超多神宗教を信仰していました。という事実を現イラクで歴史の授業として行えるのでしょうか。 甚だ疑問です。

というわけで、国ごとにどう違いがあるかは、その国の歴史の授業がどうなっているかということを想像してみると、日本とはだいぶ違うだろうということが察せられますし、今の世界状況がどうしてこうなっているのかということを知る、一つの手がかりになるかもしれません。

私は世界史が万年Dのダメ学生でしたが、最近は積極的に外国の歴史に興味を払うようになりました。特に古代史を学ぶと、人間ってこの数千年間あまり変わっていないんだな、という認識が持てるのでオススメです。

表現することは傷つけることだ

Posted on : 15-07-2009 | By : sino | In : 雑考

という言葉を聞いたことがあります。誰の言葉だったかは失念。

どういうことかというと、

あなたが何かを公に言ったり書いたりする度にそれによって傷つく人が必ずいる。その上で大切なのは、誰も傷つけないように配慮することではなく、傷つけていることを常に自覚し続けることだ。

というのが主旨だったように記憶しています。

私もこのブログで半ば確信犯的に人の心にぐっさり刺さる発言をすることがよくありますが、そうしている自覚はいつも持っています。ただ、エクスキューズをさせていただけるならば、傷つけることそれ自体を目的としているわけではなく、発言したいことを発言する、その結果として誰かを傷つけることになってしまうことと、言いたい欲求とを常に天秤にかけて判断しています。だからといって許されるわけではないのですけれども。

「お、今日はまた尖がったことを書いてるな」と思われたら、その裏で高梨は結構ギリギリの判断をしているのだとお考えいただければと思います。

「やって楽しいことというのはたいてい悪いことだ」

Posted on : 15-07-2009 | By : sino | In : 雑考

ということに気づくまで、私はなんと人生の3分の2を費やしました。ああなんでもっと早く気づかなかったのか、悔やまれるばかりです。

とはいえ、小心者の私ができる悪事なんてたかが知れております。せいぜい○○したり××したりするくらいです。

で、ここからが本題なのですが、法律とまではいかなくとも、既成の「ルール」とか「決まりごと」と呼ばれるものは、一度は疑ってみる価値があるのではないかと思っています。特に「良識」とされているものについては。

何も「積極的にルール違反をしましょう」と言っているわけではありません。「悪法も法なり」ですから。そうではなくて、何かルールや決まりごとが自分の間尺にあわないと感じたら、ルールの方を疑ってみるという考え方はあってもいいのではないかということが申し上げたい。

でなければ、世の中変わりませんし、良くもなりません。まあ一般的に言って良識から外れていることは「悪い」とされている場合が多いですから、世の中を良くしようと思ったら悪いことを考えてみる必要がある、という矛盾した結論に落ち着きます。

で、どうもこういう考えをするのは春愁に富む若者、それも男性に多いようで、年取った人は何につけても変化を好みませんし、女性はなぜかルールというものが大好きなようです。もちろん例外はありますが。前者については理由が察せられるものの、後者はなぜなのか腑に落ちないでいます。若い女性なんて一番社会的に抑圧されているはずなのに。

オンラインでのコミュニケーションには限界があります

Posted on : 09-07-2009 | By : sino | In : 雑考

メール、電話、はたまたSNS、いやいやチャット、などなど、コミュニケーションの手段がかくも多様化している現在、私が言うまでもなく、それに伴うトラブルや犯罪が発生しています。

そこまで行かなくとも、メーリングリストで意見がぶつかったり、 すれ違いが生まれてしまうなんていうのは日常的に起こっていることでしょう。

私も昔はオンラインでのコミュニケーションに偏向していました。今でもそうかもしれません。

でも、これは経験から言えますが、オンラインでのコミュニケーションには限界があります。やっぱり人間は顔を合わせないと分かり合えません。

ネット上で話がこじれて、下手にオンラインだけで解決しようとして、余計ややこしくなってしまった例を私はいくつも知っています。それも、普段メールを使いこなしている、いわゆるネット上級者ばかりの場でそうなってしまうのです。

ただ、普段顔を合わせる機会があって、それを補完する意味でということなら、ネットほど便利なものはありません。早用は効くし、確実ですし。

今日、ある小学校の校長先生とお話したのですが、要件が済んで、最後に「今はコミュニケーションの手段がメールになっちゃってるものなぁ」と一言ポツリとおっしゃったのが心に引っかかってこんなことを書いています。それだけではないんですけど、そうなりつつあるのかもしれませんねぇ。