想像力の欠如は時として命に関わる

クリエイティビティ、つまり「創造力」の話ではありません。「想像力」についてちょっとお話をさせていただきたい。

私の周りでは概して「経験or実績第一主義」が優勢です。そして、どちらかというと、都会よりも田舎の方がその傾向が強いようです。つまり「何事もやった人がえらい」裏を返せば「やってない奴は口を閉じておけ」という傾向ですね。さらに言えば「何もしてないやつが批判するなどもっての他」となるでしょうか。確かに心情としては大いに分かりますし、私自身そう思うときもあります。

ですが、果たしてそれでいいのか、ともときどき思うのです。

まあ私とおつきあいいただいている方はよくご存じの通り、私ほど無責任でいい加減な奴はそうそういないでしょう。約束は破り、予定には遅刻し、連絡もすっぽかし、飛行機の切符は無くし、といった具合で「すいません」「ごめんなさい」を言わない日はないんじゃないかと自分でも思うくらいです。私が日頃何か言われたら、すぐ対応するようにしている、少なくともそうするように心掛けているのは、放っておくと自分で忘れてしまうことを恐れているからに他なりません。

そんな私ですが、いろいろ妄想することは大好きで「現状のここのところ、ちょっと問題だな」とか、「こうしたらもっと良くなるんじゃないか」と考えたりするのは自分で好きというくらいなので、人よりも得意な分野と言ってもいいかもしれません。ついでに言えば、この癖は自分の仕事にも直結しています。

ただ、そうした視点というのは「現状に対する批判」といえばそうも言えるわけで、あまり論調を過激にすると受け入れられないこともある、というのは30年ちょっとの人生で学んだ数少ない法則です。大変幸いかつ不思議なことに、私の発言は大抵の人が受け入れてくださるので、私自身について言えば、あまりこの点について不満を抱えてはいないのですが。

で、そうした視点には「想像力」が欠かせません。ここで言うのは野放図に大風呂敷を広げたり、空想の世界に遊んだり、ということではなく、「こうしたらこうなる(はず)」とか「これこのままだとヤバい」という、現実に即して考える能力のことです。そういう能力というのは何も特別なことではなく、皆さん日常生活で使っているはずです。

例えば、自動車の運転中は暗黙の想像力をフル活用していることでしょう。「この道は婆さんが平気で道の真ん中を歩いているからスピードを落とそう」とか「もう夕方だから学校帰りの子供がチョロチョロしてるんじゃないか」とか「この横道は子供がよく遊んでいるからボールを追っかけて飛び出してくるかもしれない」とか。言葉にして考えてはいないでしょうが、きっと無意識にそう考えながら運転しているはずです。このエントリの表題で言いたいのはそういうことです。

そうした能力と、例えば活字を追って情景を想像する能力とは別物と考えられることが多いのですが、そうとも言いきれないように私は思います。もし私が人より想像力に長けているとすれば、その力はおそらく読書という習慣に因るところが大きいと言えるかもしれません。

あと、例えば「ユークリッド幾何学が何の役に立つのか」といった意見を耳にすることがあります。おそらく平行四辺形の対角が互いに等しいことを覚えても、それからの人生で役に立つことはないでしょう。ですが、それを証明するまでの過程、つまり「こうだから、こうなり、最終的にこういうことが言える」と論理立てて証明するまでを理解し、自分で追って見せる能力というのは、例えば会議の場で自分の意見に説得力を持たせる上で大変役に立ちます。矛盾している意見に従おうという人は、世の中にまずいませんから。

そう考えると、学校の勉強もまんざら捨てたものではない、と私は思っています。

私にとって不思議なのは、そうした勉学に秀でていたであろう人ちに、往々にして想像力の欠如が見て取れることです。こっちはずっと立って聞いているのに、代読の挨拶文を長々と読み上げる○○長代理の方、日本語教室の生徒が徒歩か自転車で雨の中をやって来たことを知っているのに「なんで他の人を連れて来なかったのよ」と詰る国際交流協会の職員、説明中のプロジェクタースクリーンの前を平気で横切る学校の先生 etc, etc…

それが現状なのであれば、「勉強なんかできなくてもいい」「勉強のできるやつ=悪」のレッテル貼りがされてしまっても仕方ないのかもしれません。私はそうは思わないのですけどね。

ただ、その風潮は今に始まった事ではなく、アメリカでは早くもマーク・トウェインが「トム・ソーヤーの冒険」の中で、シドを頭はいいが心の冷たい子供として描くことで、知識層の傲慢を看破していました。日本でも「論語読みの論語知らず」として学問好きを皮肉った川柳が多くあります。

一方、西欧のことわざには「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というのがあります。意味することは自明かと思いますが「頭の足りない人は自分で失敗しないと学べないが、一を聞いて十を知るような頭のいい人は書物や過去の事例から先を予測することができる」という意味に私は取っています。なろうことならそんな賢者になってみたい、と愚駑馬は切望するものでした。

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