そんなもんなら10年も100年も2000年も前からあるYO! (・∀・)ニヤニヤ

英語はなんとか話せるのに、横文字(カタカナ語)にはめっきり弱い高梨です。つい最近まで「コンデジ」のことを「コンシューマー・デジカメ」だと思っていました。orz

さて、その私以上に横文字に弱い親父とNHKを見ていたとき、こんな質問をされました。「この人はコミュニティ、コミュニティって言ってっけんが、コミュニティっちゃあんだえ(何だい)?」コミュニ「チー」と言わなかったところは、我が親ながら褒めてあげたい。w

で、「んー、まあわかりやすく言うなら、『近所付き合い』とか『仲間』ってことかな。天津なら天津の、仲宿なら仲宿の近所、みたいな」と答えました。(これが正しい答えかはツッコミ不要)

ただ、そこでハタと思ったんです。私たちはどうも昔からあるものを新しい名前で呼ぶことだけで何かを得たような気になっていないだろうか、と。特にアーリーアダプタ、天津弁でいえば「ニイモン好き」な人にこの傾向があるような気がしてなりません。

いや実際私が飯を食っている業界なんてその最たるものでして、VPS→IaaS、NFS→ファイルサーバ→NAS→パーソナルクラウド(?)なんて本質的には何も変わらないのに、あたかも革新的な新製品のように呼び方だけを変えたりしています。営業な人に言わせれば「その方が売れる」からなんでしょうが。

千葉で働いていた当時、とある企業の企画会議の末席に加えていただいたことがあるのですが、正直に申し上げて、私としてはあまりなじめませんでした。というのは、私以外の人たちは何か斬新な着想をその会議で得た!と大喜びしているようなのですが、私は「え!?それって孫子が言ってたことだよね?」「そんなことなら孔子も言ってたよね?」と内心で感じることがしばしばあったからです。つまり私からすると、彼らがあまりにも不勉強に見えたのでした。いや、もしかするとみんな内心では私と同じように感じていて、でも場の空気や社内的な政治事情を計算して喜んでいるフリをしていたのかもしれない。まあきっとそれは勘ぐり過ぎでしょうけど。

最近何かの本で読んで思わず笑ってしまったのですが、アメリカのある大学教授の調査によると「貧困層の収入が増加するにつれて、彼らはより社会的・文化的な生活を送る傾向を示す」という結果を得られたそうです。わざわざそういうことを大真面目に調査・研究しなければわからなかったことに呆れて笑ってしまったので、そんなことなら「衣食足りて礼節を知る」と3,000年近く前に斉の管仲が言っていたことです。ちょっと前の日本人なら「斉の管仲」は知らなくても、誰でもこの言葉を知っていたでしょう。

私が「ああ、この人は『常識』がないなぁ」と思うのは、そういうときなのでありまして、何も世間一般と比べてやや変わっているとか、想定外の行動をする人に対してではありません。それは個性や特徴のうちなのであって、誰だってそれぞれ人とは違っているものです。

ましてや諸行無常の人間社会において、何かが「絶対」ということはありません。最近は、冒頭に挙げた「コミュニティ」の時代なんだそうですが、そんなものなら天津にだって昔からあったので、ただそれを「コミュニティ」なんて横文字で呼んでいなかっただけのことです。

今ふと思ったのですが、こうした代替語(新語とは敢えて言いません)を使うことには、使う本人に取って一つの利点があるようです。それは「場の流れを一瞬止めさせる」効果です。何か聞き慣れない言葉を耳にしたら、普通は「ん?なんだって?」と耳をそばだて、次に「それはどういう意味だろう」と文脈から類推しようとします。それでもわからなかったら「あの、すみません、今おっしゃった◯◯というのは、どういった意味でしょうか?」とへりくだって尋ねるでしょう。その間にも話し手はどんどん話を進められるわけで、それだけ優位に立てることになります……

あれ?私としたことが、なんだかジジイのような主張になってしまったでしょうか?私は新しい物を受け入れることのできない、頑迷な老害オッサンになってしまったのでしょうか?いや、たぶん、「新しい考え方やモノを受け入れること」と「昔からあるものにヨコモジ(または似非四字熟語)の名札を付けて呼ぶこと」とは、全く別のことなのだと思います。その見極めは時に非常に難しいものですが、それをしないと、読み・聞きかじった言葉を垂れ流す「九官鳥人間」に堕してしまいかねませんから。

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