このブログをお読みの皆さんはご存じかと思いますが、「宗教」および「宗教らしきもの」に対して、今までは少なからずアンチの立場をとっておりました。主な理由は二つあり、一つはアイザック・アシモフやリチャード・ドーキンスといった筋金入りの無神論者に共感を感じていたからで、もう一つは、 ( 身 の 危 険 を 感 じ る の で 割 愛 w )だからです。
がしかし、最近そういった見方を変えなければならないかもしれないと感じることが度々あります。
名前は伏せさせていただきますが、最近知り合った、あるお坊さん(私より年下)は、皆で集まったとき、脱ぎ散らかされた靴を一足ずつ揃え、解散になったあともお店の人に任せればいいものを自分から皿やコップをまとめるなど、大変謙虚で辞が低く、また別のあるお坊さんは、私から見ても相当なカブキモノで、いろいろな武勇伝を耳にするにつけ非常に興味をそそられています。
そりゃあ世の中広いですから、彼ら以上に謙虚だったり面白かったりする人はきっといるでしょうが、実際てめぇの目ン玉で確かめないかぎり信じられないというのが人の性というものじゃございませんか? ましてや私が今まで見知っていた方々からの印象から考察す(以下自粛
さてまあそんな感じの私ではありましたが、ふとしたきっかけでそういう方たちとも知り合うことができ、見方が変わってきています。
それから、それぞれの宗教を「文化的背景」として知るのは若い頃から今でも興味がありまして、例えば、これらはもうほとんど日本語の慣用句として定着してしまった感がありますが、「目からウロコが落ちる」「額に汗して働く」といった言い回しの出典は聖書だったりしますし、あと有名なところでは、女二人に赤子を手を綱引きさせて力を抜いた方が本当の母親とした「大岡裁判」も、元は旧約聖書に登場するソロモン王のお話です。気候は温暖、食い物も旨いものばかりという房州で育った男の根性の無さを揶揄するのに、よく「アバラが一本足りねぇ」と言いますが、これも聖書で人類の始祖とされるアダムと何がしかの関係があるんじゃないかと思っています。
それらに限らず、西欧の本を読んでおりますと、ジャンルを問わず出くわすのが「メトセラのような(長命)」「ヨブのように(我慢強い)」「イスカリオテのユダ(=裏切り者)」といった表現。聖書文化になじみの薄い我々日本人は、そういうことを言われても何のことだかピンと来ません。逆もまた然りで、青い目の人に「(塩が肌にしみて)因幡の白ウサギみたいだよ」といっても通じないのと同じことです。
もちろん聖書に限らず、「オンアーボキャベーロシャノーマカボダラマニハンドマジンバラ…」で始まる光明真言はサンスクリット語という古代インドの言語で、数多の仏典はその古代語の解読に大変役立っているとか、ギリシャ神話から取られた数々の小話、あと古典落語の中にも実は「論語」や「老子」が元になっているものが結構あります。床屋の火事の話なのになぜか「厩火事」という名前になっている噺がありますが、論語のアレ、と言えば合点がいく人も多いのではないでしょうか。
そもそも、ガウタマ・シッダールタやConfucius、大工のヨセフのセガレたちが言っていたことは、読んでいて結構面白いですし、私自身なるほどと思うこともたびたびあります。彼らをして当時の偉大な哲学者・思想家だったと認めるにやぶさかではありませんが、問題なのは(以下自粛
とはいえ私もかくのごとく書き散らかしてはおりますけれども、なんせ日本という国から一歩も外に出たことのない身でありまして、また井の中の蛙が鳴いてやがると思し召しくだされば幸いでございます。今日のところはこの辺で。お後がよろしいようで。