たまには、ちょっとだけ真面目な話を。

普段は冗談まじりに、いや、くだらない話の方がどちらかというと多いこのブログですが、書いておく必要があると思ったので、今日は少しだけ真面目に語ってみます。

最近、というかちょっと前から、いろいろなところでいろいろな人から、ある人との関係を指摘されます。「◯◯さんとは仲が悪いんですか?」「忍ちゃんのライバルの・・・」「仲良くしねぇばおいねぇ」などなど・・・。

まああれだけ批判的なことを(私が)書いているので、そう捉えられてもしかたないとも思いますし、やっていること、依って立つところが似ているので、ライバル関係にある、とも言えるでしょう。それに、今この時点で「感情として」好きか嫌いか、と問われれば、正直に言って後者なことは否めません。

ただ、それはきっと立ち位置が近いから、余計に相手のアラが目立つ、ということなのだと、頭ではわかっているつもりです。私としても「そうじゃぁないんだよなぁ・・・」という思いから書いているわけで、それは、件の人が重要と考えているものを私はそう思っていないし、逆もまた然りだからです。

それに、これは時々思うんですが、仮に対立が事実だったとして、それは一概に「悪いもの」と言えるでしょうか? 小泉さんが首相だったときに言っていましたが「競争なくして発展なし」。対立を起こさず、何かの改良や発展を望めればいいのですが、人間は怠惰なものなので、外部起因の危機感がないと現状維持に流れやすいものです。例えば、先の戦争がなかったら、現代の航空産業や自動車産業が有り得たでしょうか? そもそも、この記事を載せているインターネットというものでさえ、東西冷戦時、大型コンピュータの一局集中を核攻撃から防備するために生まれたという背景を持っています。

そんなものは物質的な価値にすぎない、大事なのは精神性だ、という向きもおられるかもしれません。殊に、「和をもって尊しとなす」この国で、人々の「繋がり」や「共感」「肯定」が叫ばれる昨今、「対立」という言葉は、心に少々緊張の音色をもって響きます。

ではありますが、あえて問いたい。社会や歴史を動かしてきたのは、いつの時代も「対立」であり「競争」であり「問題意識」ではなかったか、と。フランス革命は「貴族」対「平民」の、明治維新は「開国派」対「鎖国派」の、アメリカ南北戦争は「奴隷制容認派」対「奴隷制廃止派」の、それぞれ対立であったと、捉えることもできるでしょう。それぞれの結果が、常に良いものだったとは限りませんが、個人が自由に主義主張を表明できない社会が、この現代にあってさえ、どれだけ悲惨なものになるかは、私たち日本人なら、身近に知っているはずです。

私は、言葉を知らなかった幼いころ、「批判」という言葉を「評価」と同じ意味に捉えていました。つまり「誰それを批判する」というのは「誰それのことをほめる」という意味だと思っていたのです。字面からすれば、「批して判ずる」のですから、ほめることもあり、けなすこともあるだろう、と思っていました。それから程なくして「批判」というのは、一般t的には「反対の立場から言う」意味に使われていることを知りました。

私は批判はしていても、「陰口を叩いている」つもりはありません。意見を言うときには、私なりに正当と考える理由を挙げ、説明を加え、疑義を呈する、という手順を踏んでいるつもりです。もちろん、修辞的な表現をとることはあります。ただ、それは文章上の技術にすぎない。普段私が提供しているユーモアと同じ類のものです。

繰り返しますが、私は私、彼は彼です。立ち位置は非常に近く、共感できるところもないわけではありません。が、今の時点では、主に思想の違いから協力体制を敷くことは私はできない。もしかしたら、一転賛成派に転ずる可能性も否定しませんが、今のところその予定はありません。

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