それでも、俺は日本語を教えに行く。希望はあるよ。

日々、中国国内の「反日デモ」が激化する中、実は心中穏やかでない高梨です。

というのも、ご存じの方も多いと思いますが、私はボランティアで毎週金曜日の夜、中央公民館で市内在住の外国人(主に中国出身)に日本語を教える、ということをしているからです。

日本の国旗が燃やされたり、日系企業や工場が襲撃の対象になったり、日本製の自動車、そしてあろうことか日本人が攻撃を受けたり、などなどなど・・・といった報道を目にするにつけ、一人の日本人として正直、はらわたが煮えくり返る思いに駆られます。そして、自分は本当に正しいことをしているのだろうか?との疑念に悩まされることも一度や二度ではなく、私とて聖人君子ではないので、

「こんなやつらに親切にしてやって何になる?」
「こんな民族と話し合おうとしたって無駄だ!」
「同胞が流血の惨事に見舞われている一方で、お前は何も感じないのか?」
「お前が抗議の態度を示したいなら、ただ『何もしない(授業をやめる)』だけで済むじゃないか」

といった囁きが、心に湧き上がらない日はありません。実際、親などは、冗談まじりにでしょうが「(授業に)行くのやめちゃえば?」などと言ったりもします。

さ は さ り な が ら。

もうこうなると自分に言い聞かせるしかないのですが、私は自分のことを「理性的な人間」であれかし、と規定しています。そうではない面は多々あるかもしれませんが、少なくともそうでありたい、と願っている。「理性」の定義とは何か、というのは難しい話ですが、漠然と「感情よりも理(ことわり)を重んじること」としておきます。

そう、理屈から言えば、私の生徒がデモを起こしているわけでも、襲撃を行なっているわけでもありません。だから、彼らが割を食うのはおかしな話なんです。また、私が日本語を教えないからといって何か事態が好転するわけでもないでしょう。

それにね。

どうやら世の中、そう見捨てたものではなさそうだと、↓このまとめを見て思い直しました。

反日デモ隊が荒らした店を清掃する中国人学生たち――手には「理性愛国、反対暴力」のプラカードが

ああ、やはり理性の人はどの国にもいるものです。しかもこれが「学生たち」だというからよけい嬉しいじゃないですか!

なぜって、私が教えているのは、だいたいが20代前半の若者たちだからです。この清掃デモ隊(笑)の中に私の元教え子がいるとは思いませんが、同年代の若い人達がこういうことをしているという事実は、乱れた心を大いに安んじてくれます。

だから、私は日本語を、日本文化を、生徒の国籍問わず伝えに行き続けるでしょう。大丈夫、希望はある。

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