特攻に思いを馳せて木遣り節 マドモワゼルも驚きにけり

毎年のこの季節になりますと、鴨川市消防団第四支団第三分団では旅行にでかけます。団体旅行として悪名高いところでは「ノーキョーのリョコー」が有名ですが、「ショーボーのリョコー」も負けず劣らず程度が悪いかもしれません。w

さて、4日から6日の2泊3日の行程で行ってきたのは、まず鹿児島は知覧。先の大戦で「特攻」「Kamikaze」と称された特別攻撃隊が敵艦隊目がけて離陸していった、あの知覧基地です。「知覧特攻平和館」が建てられており、戦場に散っていった1030柱のご英霊の遺影はもちろん、作戦に使われた航空機、銃後に宛てられた、あるいは銃後から届いた手紙の数々が展示されています。「館内撮影禁止」でしたので、写真をご披露できないのが残念です。

ご遺影を一枚一枚拝見して驚いたのは、一人も、本当に一人たりとも、怯懦・不安・狂気・混乱…などの感情に駆られている表情がなかったこと。中には愉快を楽しむかのように、笑みさえ浮かべられている方もいらっしゃいました。もし「明鏡止水」を表情に表せるものだとしたら、ああいったものになるのでしょう。彼らはだいたい二十歳前後の、まさに「弱冠」の若者たちだったのですが、私などが二十歳当時、あるいは今に至りこれからの人生であのような表情を浮かべて死地に赴くことができるか、甚だ不明と言わざるをえません。

ところで、特攻というと我が国の若者ばかりが散っていったイメージがありますが、実際には朝鮮半島の若者も加わっていたことは意外と知られていません。実際私もそのことは知らなかったのですが、平和会館にあった石碑で「アリランの・・・」で始まっているのが視界の端に止まり、おや?と思って立ち止まって見ると、

アリランの 歌声とほく 母の国に
念ひ残して 散りし花花

との歌が刻まれていました。考えて見れば、さもありなん、ですね。是非は置くとして、当時朝鮮半島は日本の一部だったのですから、当地出身の若者だって特攻に加わることがあってもおかしくはありません。そう考えると「御国のため」と散っていけた者はまだ良い方で、「母の国に念ひ残して」死ななければならなかった人たちの心中は察するに余りあるものがあります。

さて、そのような方たちが文字通り命を懸けて守ってくれた日本に後から生まれた者たちができることがあるとすれば、感謝の念を奉じつつ、平和で幸せな世を存分に堪能することでしょう。というわけで、鹿児島からバスと電車を乗り継いで一路博多へ。

自称「ことばフェチ」の私にとって、方言やなまりは気候・食べ物よりも土地柄を感じられるものに映ります。特に若い女性が土地の言葉で話しているのを耳にすると、ゾクッとくるのは私だけではないはず。博多も例外ではなく、街を歩けば「知っとっとー?」「・・・ば遠かけん」「・・・じゃろうもん」などなど、耳に飛び込んできます。やー、博多ばほんまよかとねー! 1日目の夜、みんなで飲んだ席でも、男の房州弁と女性の博多弁が飛び交い、大変楽しい思いをしました。

まあ博多の中洲に行って夜何もしなかったわけがなく、連合国出身のマドモワゼル・ミ○ェルを招待し、国際交流致しました。ただ、佳境に入ろうかというところで天津の木遣りが廊下から聞こえ始め、何事かと思っていたらドアをドンドン叩かれ始めました。件の○シェルはバスルームに逃げこんでしまうし、私はまあだいたい状況を察していたのですが、ドアを開けてみると、案の定、同行のF川さんがしたたか酔いつぶれ、神輿になっていました。私はなだめなければならない相手がいたので、ドアの外には出なかったのですが、S君はキーを持たず担ぎ出しに参加してしまったそうで、誰ととは言いませんが二人でドアの外でホテルマンを待つハメになったらしいです。Y輔君、お疲れ様。

二日目以降も思わぬところでくさやのニオイを嗅ぐことになったり、いろいろありましたが、大変楽しい旅行でした。アデュー!

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