普段、私は情報収集は専らネットで行っており、あまり新聞というものを読みません。が、房日新聞だけは別で、会社の経費で購読しています。 4日の社説「展望台『無縁社会』」の後半に興味深いご意見を拝見したので、僭越ながらコメントを寄せてみたいと思います。(記事内容については、右画像をクリックしてご参照ください)
この記事の筆者の方はおそらくはご高齢で、ネットをお使いになっていたとしても、メールやWeb閲覧くらいではないかと拝察致します。
まず、「ネットの前提は、隣にいる人も地球の裏側にいる人も同等」とありますが、必ずしもそうではないことをご指摘させていただきます。私は最近Twitterというサービスを楽しく利用しておりますが、例えば鴨川市内在住の方、あるいは鴨川ご出身の方といった、地域を軸にした縁を得ることも多く、地元のローカルな話題で盛り上がることもしばしばあります。またmixiという国内サービスでは地元のある飲食店を中心としたコミュニティが現にあり、月に一度オフ会(誕生月会)が開かれています。私自身が多忙のため、なかなか出席することはかなわないのですが、後者は当地域では稀有な(笑)存在である若者たちにとって貴重な交流の場となっております。
もちろんそれは、私どものような者にとっては「死」が喫緊の憂患事ではないからなのかもしれません。しかしながら、ただでさえ若者向けの娯楽場が少ない当地域で、ネットでの「つながり」を「分断された弧を象徴している」と断じてしまうのはいかがなものでしょうか。道を歩けば見かけるのは高齢者ばかりの当地域の若者にとってネットは貴重な出会いの場であり、もし、「人の死という超リアルな事態に対して…ネットのサイト縁は果たして何をし得る」かを問われるならば、文通や電話も同じことではないかと考える次第です。
遡りまして、「地縁」について、最近新しい知見を得ましたのでご紹介させていただきます。
私自身は、ここ、鴨川市天津地区で生まれ暮らす者として、おっしゃるような地縁を快いものと受け止めております。昔からの知り合い、友人、ご近所に囲まれて暮らし、顔を合わせれば抵抗なく挨拶を交わすことのできるこの街に無類の愛着を持つ者です。
ですが、都内の連携企業社員の方とネットで雑談を交わした折、こうした関係を必ずしも快く思わない、むしろ耐え切れないほど鬱陶しく感じる人もいることを教えられました。別の機会では、Twitter上で「隣人に家の中を覗かれるようにして暮らすなんて自分にはできない」という旨の発言も散見したこともあります。
正直なところ、そうした考えや発言が実際にあることをやや淋しく感ぜざるをえませんが、そうした人もいることも時代の変化として受け止めなければならないとも考えております。幸い、私がおつきあいさせていただいている鴨川市への移住者は、むしろそうした縁を求めて越していらっしゃる方が多く、安心を覚えてはいるのですが。
私自身も初めての経験ですので、こうしたコメントをブログにてお寄せすることが正しいのか、文意から察すればあるいは避けるべきであったかもしれませんが、他に適当な方法を思いつきませんでしたので、非礼の際は何卒ご容赦ください。