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房日新聞 12月4日号社説「展望台『無縁社会』」への公開コメント

普段、私は情報収集は専らネットで行っており、あまり新聞というものを読みません。が、房日新聞だけは別で、会社の経費で購読しています。 4日の社説「展望台『無縁社会』」の後半に興味深いご意見を拝見したので、僭越ながらコメントを寄せてみたいと思います。(記事内容については、右画像をクリックしてご参照ください)

この記事の筆者の方はおそらくはご高齢で、ネットをお使いになっていたとしても、メールやWeb閲覧くらいではないかと拝察致します。

まず、「ネットの前提は、隣にいる人も地球の裏側にいる人も同等」とありますが、必ずしもそうではないことをご指摘させていただきます。私は最近Twitterというサービスを楽しく利用しておりますが、例えば鴨川市内在住の方、あるいは鴨川ご出身の方といった、地域を軸にした縁を得ることも多く、地元のローカルな話題で盛り上がることもしばしばあります。またmixiという国内サービスでは地元のある飲食店を中心としたコミュニティが現にあり、月に一度オフ会(誕生月会)が開かれています。私自身が多忙のため、なかなか出席することはかなわないのですが、後者は当地域では稀有な(笑)存在である若者たちにとって貴重な交流の場となっております。

もちろんそれは、私どものような者にとっては「死」が喫緊の憂患事ではないからなのかもしれません。しかしながら、ただでさえ若者向けの娯楽場が少ない当地域で、ネットでの「つながり」を「分断された弧を象徴している」と断じてしまうのはいかがなものでしょうか。道を歩けば見かけるのは高齢者ばかりの当地域の若者にとってネットは貴重な出会いの場であり、もし、「人の死という超リアルな事態に対して…ネットのサイト縁は果たして何をし得る」かを問われるならば、文通や電話も同じことではないかと考える次第です。

遡りまして、「地縁」について、最近新しい知見を得ましたのでご紹介させていただきます。

私自身は、ここ、鴨川市天津地区で生まれ暮らす者として、おっしゃるような地縁を快いものと受け止めております。昔からの知り合い、友人、ご近所に囲まれて暮らし、顔を合わせれば抵抗なく挨拶を交わすことのできるこの街に無類の愛着を持つ者です。

ですが、都内の連携企業社員の方とネットで雑談を交わした折、こうした関係を必ずしも快く思わない、むしろ耐え切れないほど鬱陶しく感じる人もいることを教えられました。別の機会では、Twitter上で「隣人に家の中を覗かれるようにして暮らすなんて自分にはできない」という旨の発言も散見したこともあります。

正直なところ、そうした考えや発言が実際にあることをやや淋しく感ぜざるをえませんが、そうした人もいることも時代の変化として受け止めなければならないとも考えております。幸い、私がおつきあいさせていただいている鴨川市への移住者は、むしろそうした縁を求めて越していらっしゃる方が多く、安心を覚えてはいるのですが。

私自身も初めての経験ですので、こうしたコメントをブログにてお寄せすることが正しいのか、文意から察すればあるいは避けるべきであったかもしれませんが、他に適当な方法を思いつきませんでしたので、非礼の際は何卒ご容赦ください。

馬鹿とは言わないが、知性の欠落した中国批判について

WBCでは日本を熱く応援し、自国の国旗には敬意を表し、抵抗を感じることなく国歌を歌う、標準的な愛国者として一言いっとく。今までいろいろな中国批判を見聞きしてきましたが、この「“中国”という国」という記事は、説得力・文章の巧拙・問題に対する態度などの視点から見て、まあ日本語として文法的には正しい文章にはなっているレベルとは言えますが、それ以上のものでは何一つといってないでしょう。端的に言えば「視点が浅薄かつ高所的過ぎ、知性のかけらも感じられない」ということになるでしょうか。むやみに断定的なのも気になります。

例えば、

今回の中国の姿勢を見ると、まさに中華思想そのものである。

中国という国は全く信用がおけない。
それもそのはず。
中国四千年の歴史というのは誤りであり、中国大陸という土地において四千年以上にわたって、民族や王朝同士が互いを殺戮し合い、征服し合ってきたのだから、日本人の常識は通用しないのだろう。

とありますが、ではそうではない国が世界にどれだけあるでしょうか?ヨーロッパにおいても、史実として残っているだけでも少なくとも2000年以上にわたって「民族や王朝同士が互いを殺戮し合い、征服し合ってきた」歴史がありますが、ヨーロッパ諸国が「全く信用がおけない」ことになるのかな?南北両アメリカ大陸なんかは、コーカソイドによって固有民族が迫い立てられ、強制労働させられ、搾取されてきたんだぜ?まあそれはおいても、「中国=中華思想の国」ってのは、いくらなんでもステレオタイプが過ぎるでしょう。2才になるうちの甥っ子でも、もうちょっと知恵のあることを言えそうだ。w 察するに神道系の座学会かなんかで聞きかじった主張なんでしょうが、もう少し精査した方がいいと思うよ。

保守系論者の間ではしばしば「中国四千年の歴史というのは誤り」という主張そして同じくらいの頻度で「我が国皇紀2600年の正統性(?)」が見受けられますが、ちょっとこれについて言及しておきます。例えば中国最後の王朝「清」は、満州族の愛新覚羅氏が打ち立てた国です。つまり少数民族である満州族がそれまでの漢人王朝明に取って代って、漢民族が大多数を占める中国地域の支配を始めました。

ただし、中国の歴史ではよくあることですが、支配者であるはずの清王族の方が次第に「漢化」されていき、王朝末期には満州語を話せる王族はほとんどいなかったと言われています。確かに男子の辮髪強制など文化の面で全く専制的でなかったとは言えませんが、その程度の強制であれば、同時代の我が国においても「生類憐みの令」「質素倹約令」等、類するものはありました。そして、驚くべきは、中国の史書は新王朝によって前王朝のものが書かれていたということです。つまり明朝の歴史について書いたのは、取って代った清朝の官僚たちでした。

というようなわけで、「中国◯千年の歴史」という言い方もあながち間違ってはいないと、私は考えているのですがいかがでしょうか。むしろ、2,600年(?)もの間、天皇が男子一系で存続してきた我が国の場合の方が、よほど稀有な例で、世界に類を見ません。「日本人の常識」が通用しないのは中国だけでなく、世界中について言えるでしょう。

中国的共産主義によって国家は成り立っているが、経済面では唯物主義、超資本主義である。
中国人の多くの考え方も物質至上主義的なところが大きい。

また随分と物々しくのたまったもんですな。(苦笑) その割に理由や根拠を一つも挙げず、この言い切り方、断定口調。主観に囚われきっていることに気づいておられるだろうか?そうまで言いきれるあなたは、あの国の何を知っているというのか。

しかし、私が5年以上前から指摘しているように、中国は必ず大きな壁にぶち当たる。
物質主義は必ずや崩壊するときが来る。
そのとき、かたちのないところに新たな価値を見出せなければ、おそらく中国という国家は崩壊するであろう。
否、すでに崩壊は始まっているかもしれない。

で、つまるところこの5年以上の期間に渡ってその指摘とやらは当たらなかったわけだね?w まあ期限を設けなければどんな予言だってできるわな。「太陽はいずれ必ずや爆発する!(数十億年後にはきっと…)」

という意地の悪い指摘はさておき、私は中国人とだいたい週に一度会っているのですが、そこで受ける印象は、「マルクス・レーニン主義」「共産主義」「唯物主義」という言葉からは、かなり隔たりがあります。むしろ彼らの宗教観は、迷信深いというか、なんでもありがたがっていた江戸時代の庶民のそれに近いものがあるように思われます。彼らが首に下げていた「大仏」は、その表情が日本の「大黒天」に驚くほど似ていました。また、横浜の中華街に連れていった生徒の中には「天帝」に敬虔な祈りを捧げている人もありました。

附言すると「精神vs物質」という二元論的な見方自体、ニーチェ辺りに言わせれば西洋哲学に毒されている証拠で、和を以て尊しと為す我が国の伝統文化とは相容れないように思われますが如何?

ちなみに尖閣諸島問題について。
一番の解決方法は米軍基地を作り、駐留してもらうことだろう。
自衛隊だと中国に対して刺激が強すぎる。
せっかく日米安保で守ってもらっているのならば、米軍を活用しない手はない。
ついでに日米共同で油田開発でもしてはどうだろうか。
アメリカもこの提案には乗ってくるのではないだろうか。

あのね、アメリカのよき父母たちに「あなたのお子さんに俺達のちっぽけな領島を命懸けで守ってもらいます。あ、ちなみに俺達は自国の軍隊さえ出しませんからそのつもりで♪」って言うつもりですか? 確かに俺は実利も重視するけど、さすがにそこまでセコくはなれない。「共同で油田開発」って、そういう発想こそを「唯物主義」って言うんじゃないの!?

さて、普段なら宮さま育ちの白ネギが何を言ったところで黙殺するだけですし、そもそも普段注意を払っていないのですが、今回はあまりに目に余ったのと、突っ込み所満載だったので大人げなく噛みつかせていただきました。

実はこの文章、かなり前に書き始めたのですが、「一身上の都合により」、今更ながら晒すことになってしまいました。遅延をお詫びします。

みんな頑張ってるんだよな・・・

どっちかというとつぶやきに近いエントリになってしまいます。

最近、いろいろあっていっぱいいっぱいだったんですが、ふと、「自分だけじゃないよな」と思い直しました。みんなそれぞれ責任持って一生懸命やっている。俺だけじゃないよな、って。

私の周りには、仕事の他にご自分の意志で「ボランティア」に取り組んでいる方が多く、私もその真似事をしているのですが、「なんでこの人(たち)はこんなに一生懸命、責任持って事に当たれるんだろう」と思わされることがしばしばあります。そこへ行くと自分のしている事は、非常に無責任で、決まりがつかず、中途半端なんですよね。それは、いろいろ手を出しすぎているからなのかもしれませんが、にも関わらず、ある程度の瑕疵や失敗は大目に見ていただいている。どこへ顔を出しても、たいがい笑顔で迎えていただいています。(裏では怒りを押し殺しているのかも。だとすると怖いですが。)

ただ、いつまでも自分がいっぱいいっぱいじゃあダメでしょうね。私の「後輩」たちは、文句のつけようがないほどしっかりしている奴ばかりで、こっちが恐縮するばかりなのですが、いつか自分(たちの年代)が嫌でもまとめて行かなければならないことを考えると、もっとしっかりしなきゃあな、とも思います。

みんなそれぞれ一生懸命頑張っている。汗かいて、歯を食いしばって、仕事も家庭もボランティアもやっている。俺だけが楽な思いをできるわけがないよな、と改めて思うのでした。

想像力の欠如は時として命に関わる

クリエイティビティ、つまり「創造力」の話ではありません。「想像力」についてちょっとお話をさせていただきたい。

私の周りでは概して「経験or実績第一主義」が優勢です。そして、どちらかというと、都会よりも田舎の方がその傾向が強いようです。つまり「何事もやった人がえらい」裏を返せば「やってない奴は口を閉じておけ」という傾向ですね。さらに言えば「何もしてないやつが批判するなどもっての他」となるでしょうか。確かに心情としては大いに分かりますし、私自身そう思うときもあります。

ですが、果たしてそれでいいのか、ともときどき思うのです。

まあ私とおつきあいいただいている方はよくご存じの通り、私ほど無責任でいい加減な奴はそうそういないでしょう。約束は破り、予定には遅刻し、連絡もすっぽかし、飛行機の切符は無くし、といった具合で「すいません」「ごめんなさい」を言わない日はないんじゃないかと自分でも思うくらいです。私が日頃何か言われたら、すぐ対応するようにしている、少なくともそうするように心掛けているのは、放っておくと自分で忘れてしまうことを恐れているからに他なりません。

そんな私ですが、いろいろ妄想することは大好きで「現状のここのところ、ちょっと問題だな」とか、「こうしたらもっと良くなるんじゃないか」と考えたりするのは自分で好きというくらいなので、人よりも得意な分野と言ってもいいかもしれません。ついでに言えば、この癖は自分の仕事にも直結しています。

ただ、そうした視点というのは「現状に対する批判」といえばそうも言えるわけで、あまり論調を過激にすると受け入れられないこともある、というのは30年ちょっとの人生で学んだ数少ない法則です。大変幸いかつ不思議なことに、私の発言は大抵の人が受け入れてくださるので、私自身について言えば、あまりこの点について不満を抱えてはいないのですが。

で、そうした視点には「想像力」が欠かせません。ここで言うのは野放図に大風呂敷を広げたり、空想の世界に遊んだり、ということではなく、「こうしたらこうなる(はず)」とか「これこのままだとヤバい」という、現実に即して考える能力のことです。そういう能力というのは何も特別なことではなく、皆さん日常生活で使っているはずです。

例えば、自動車の運転中は暗黙の想像力をフル活用していることでしょう。「この道は婆さんが平気で道の真ん中を歩いているからスピードを落とそう」とか「もう夕方だから学校帰りの子供がチョロチョロしてるんじゃないか」とか「この横道は子供がよく遊んでいるからボールを追っかけて飛び出してくるかもしれない」とか。言葉にして考えてはいないでしょうが、きっと無意識にそう考えながら運転しているはずです。このエントリの表題で言いたいのはそういうことです。

そうした能力と、例えば活字を追って情景を想像する能力とは別物と考えられることが多いのですが、そうとも言いきれないように私は思います。もし私が人より想像力に長けているとすれば、その力はおそらく読書という習慣に因るところが大きいと言えるかもしれません。

あと、例えば「ユークリッド幾何学が何の役に立つのか」といった意見を耳にすることがあります。おそらく平行四辺形の対角が互いに等しいことを覚えても、それからの人生で役に立つことはないでしょう。ですが、それを証明するまでの過程、つまり「こうだから、こうなり、最終的にこういうことが言える」と論理立てて証明するまでを理解し、自分で追って見せる能力というのは、例えば会議の場で自分の意見に説得力を持たせる上で大変役に立ちます。矛盾している意見に従おうという人は、世の中にまずいませんから。

そう考えると、学校の勉強もまんざら捨てたものではない、と私は思っています。

私にとって不思議なのは、そうした勉学に秀でていたであろう人ちに、往々にして想像力の欠如が見て取れることです。こっちはずっと立って聞いているのに、代読の挨拶文を長々と読み上げる○○長代理の方、日本語教室の生徒が徒歩か自転車で雨の中をやって来たことを知っているのに「なんで他の人を連れて来なかったのよ」と詰る国際交流協会の職員、説明中のプロジェクタースクリーンの前を平気で横切る学校の先生 etc, etc…

それが現状なのであれば、「勉強なんかできなくてもいい」「勉強のできるやつ=悪」のレッテル貼りがされてしまっても仕方ないのかもしれません。私はそうは思わないのですけどね。

ただ、その風潮は今に始まった事ではなく、アメリカでは早くもマーク・トウェインが「トム・ソーヤーの冒険」の中で、シドを頭はいいが心の冷たい子供として描くことで、知識層の傲慢を看破していました。日本でも「論語読みの論語知らず」として学問好きを皮肉った川柳が多くあります。

一方、西欧のことわざには「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というのがあります。意味することは自明かと思いますが「頭の足りない人は自分で失敗しないと学べないが、一を聞いて十を知るような頭のいい人は書物や過去の事例から先を予測することができる」という意味に私は取っています。なろうことならそんな賢者になってみたい、と愚駑馬は切望するものでした。

「時間の使い方」と「自由」について

今日、あるお客様にご請求を上げ、その後雑談交じりにいろいろお話をしたのですが、その時「時間の有効利用」について話題になりました。

時間を有効的に利用するには、まず自分の行動記録をつけることから、という話にもなったのですが、何にせよ記録をつけることに関しては人一倍億劫に感じてしまう私。それでもつらつら考えるに最近のパターンというのは思いあたります。

概ね10:00頃起床。
たまに7時くらいに起きるときもありますし、昼過ぎまで寝ているときもありますが、だいたい10時頃が一番多いでしょう。起きてすぐやることは携帯の着信チェック、メールチェックです。その後、対応を考えながら、朝食。

日中(~17:00くらい)
打ち合わせ、メンテナンス、コード書き、急患対応、諸連絡、など。

18:00頃
夕食

19:00~
JC、消防、青年、日本語教室など各種ボランティア活動。

22:00~
上からの流れで、飲み(笑) 。

25:00頃
帰宅。入浴後、3階の寝床へ。この時間には居間で母が寝ているので居間にはいられません。
寝床トップ(ノートパソコン)で、メール書き、ブログ書きなど。仕事をすることもままあります。

27:00頃
就寝。その前に時間が取れれば読書。

ここに書いたのはあくまで私の記憶から見えてきただいたいのパターンで、徹夜で仕事するときもありますし、飲まないときももちろんあります。が、おおよそこんな感じで一日を過ごしています。

「自分の時間がないじゃないか」って?そんなことはないですよ、全部自分の時間だと思ってますから。経営者たる者、仕事に費やす時間を自分の時間と思わなければ失格でしょう。それに日中もネットで情報(新聞記事や旬なトピック、自分の興味あることを含む)を得たり、音楽を聞きながらコード書いたりと、いわゆる趣味と仕事をオーバーラップさせているので、そんなに苦になりません。

が、将来もし人を雇うことになったら、これではいけないだろうなぁと暗澹たる思いになることもあります。社長が仕事中にiPod耳に嵌めてるわけにはいきませんからねぇ。

それにも増して現実的に心配なのが、もし嫁さんをもらって家庭を持ったら、こうまで自由に時間を使えるか、ということ。家族との団欒も必要でしょうし、そうなったらボランティアに費やす時間を削らなければならなくなるかもしれません。同年代の知人、特に同級生たちが、結婚した途端、社交的でなくなるのも無理はないかもなぁとも思ったりします。

「休日は何をしてるんだ?」って?これがまた色々埋まってしまうものなのですよね。JCの例会および関係団体の手伝い、青年の手伝い、ウィークデーにやりきれなかった仕事、etc, etc… 正直、デートなんかしてる暇がないです。w

ただ、誤解の無いように申し上げておくと、私はそれを楽しんでやっています。まあ楽しめないとしても、少なくとも自分の意志でやっています。その点、会社や上司から命令されてサービス残業せざるを得ない社畜ども被雇用者の方に比べれば自由を満喫しているつもりです。

このブログや普段の言動からお分かりの方も多いでしょうが、私は自由であることをことの外愛しています。発言・言論の自由、行動の自由、学問の自由、職業選択の自由、タバコを吸う自由、などなど。その結果いわゆる社会規範(年上・年下の関係、親子の関係、近所づきあいの関係、顧客・サービス提供者の関係)を逸脱することもままあり、それは重々承知しています。ですが、福沢諭吉が「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言ってから、もう100年以上も経っているのですから、無条件に人にへつらうのは止めにしてもいいんじゃないか、と思います。そう言った以上、私は例えば年下にタメ口で喋られても気にしないことにします。また、鋭い方ならご明察いただけるかと思いますが、自由と平等は背反するものではなく、セットで考えて初めて成り立つものです。

あれ、書き出しからずいぶん違うところに来てしまいました。結論らしい結論も出せないままですが、もう夜も明けてしまうので、今日はこの辺で寝ることにします。おやすみなさい。

政治家につぶやいて欲しくないなぁ

こういう商売をしていますから、一応ネットで新しいサービスが流行ってると聞くと、とりあえずはアカウントを取得して、触ってみることにしています。mixi然り、twitter然り、Facebook然り。

が、結局「何が楽しいの?」ってことになって、その実、あまり使っていなかったりもします。mixiは最初は打ち明け話的なネタを披露したりもしてましたが、身内や近すぎる人がマイミクに多くなってあんまり書き込みしなくなりました。

最近話題のtwitterも結構前からアカウントを取得してはいたのですが、そして最近またやり始めてはいるのですが、やっぱりあんまり面白くありません。なんでみんな面白がってるんだかよくわからない。

ところが、テレビの報道によると、最近は政治家の先生方もtwitterでつぶやいているとのこと。まあ水商売人気商売なところもあるでしょうから、やってはいかんとは言いませんけれども、政治家だったら堂々と自分の声で演説してほしいなぁと思うのは私だけでしょうか。だいたい「何時から○○会議」「今日の昼飯はカツ丼」なんてつぶやきを見て面白いと思いますか?よっぽどその人のマニアックなファンならいざ知らず、政治家なら理想や信念を熱く語ってなんぼでしょう。

事実の羅列からも垣間見える人間性というのもあるかもしれませんが、それを読み取るにはかなりの労力を取られます。なら、演説なり文章なりで自分の心からのメッセージをがっつり語って欲しい。固まってもいないふにゃふにゃな雑念を垂れ流すのはやめて欲しいと思うのです。

というわけで、やるのであればブログをお勧めします。それも事実の羅列ではなく、自分の思うところをできるだけ平易な言葉で表現してみたらいいと思います。

言い訳

私は、常々「自分の発言には自分で責任を持ちたい」と思っています。ということは逆に「現状、責任を持てていない」ということでもあります。

なので、ここに書いたことも、よほどのことが無い限り後から削除することはないのですが、昨日初めてそれをしました。というのも、「マイノリティにはできうる限り配慮するべき」という別の方針と相成り立たないことに気づいたからです。

「マイノリティ」なんて横文字を使いましたが、要は、お年寄り、年少者、聾唖者、視覚障害者、そしてもしかすると女性など、比較的少数で、社会に対する影響力が弱い立場にある人たちのことをそう言います。

さて、昨日の私の発言の中には特定の職業の人々のことを、あきらかに侮蔑する表現が含まれていました。彼らをマイノリティと呼ぶことが一般的かはわかりませんが、私が考えるに、おそらく遠からずそうなっていくでしょう。また、何にせよ特定の職業を取り上げて侮辱するのは適切な発言とは言えません。

夜中に投稿して次の朝不適切なことに気づき、すぐ削除したのですが、天知る地知る、既に目に留められた方がいらっしゃって、その記事のことを今日早速尋ねられました。それもあって、こんな不面目な言い訳をしています。

決して守りに入ったわけではありませんので、これからも、大いに思う所を書いていきたいと思っています。ただ、公開する前には重々検討を重ねた上で「公開」ボタンをクリックするようにします。

あけましておめでとうございます

今年も、毎年のように新年が始まりました。きっと来年もそうなるだろうな、と思います。本年もよろしくお願いいたします。

さて、今まで正月には新年に向けての誓いなどを立てていましたが、自分でも情けなくなるほど達成できていないので、やめにします。

その代わり、今年のテーマとしたい言葉をご披露します。それは

「狂簡」

です。「狂」の字が、やや強めの印象を与えますが、ちょっと説明させてください。

もともと興味があったのと、尊敬している人の影響で、今「論語」を読んでいるのですが、その中に

(かえ)らん与(か)、帰(かえ)らん与(か)
(わ)が党(とう)の小子(しょうし)、狂簡(きょうかん)にして、斐然(ひぜん)とし章(しょう)を成(な)す。
(これ)を裁(さい)する所以(ゆえん)を知(し)らず。

という孔子の言葉があります。訳としては「帰ろう、帰ろう。うちの田舎の若いやつらは、跳ねっ返りが強くて、意気盛んに文化活動をしているけれど、それを活かす正しい方法を知らない。(だからわしが帰って教えてやろう)」くらいになるでしょうか。「狂簡」という言葉の意味を辞書で引くと

志が大きく、小事には心を用いないこと。また、志は大きいが、おこないはそれに伴わず疎略なこと。

とあります。

私は今年で 34 になりますが、田舎社会では若い部類に入ります。それでも少ない後輩たちを見ていると、頼もしくなるような奴ばかりなのですが、自分もまだまだ負けていられない、そんな自戒も込めて、敢えてこの言葉を選びました。私の志が大きなものかどうかはわかりませんが、行いの疎略さは皆さんご存じの通りです。

といいつつも、最近、若者の間で流行っている音楽の良さがわからなくなってきました。このまま行ったら「最近の若い奴らは・・・」と老害丸出しの発言をするようになりそうで、いささか怖い気もしている今日この頃です。

たぶんAI(人工知能)が実現するのは、メガコアCPUができてからだと思う

今のコンピュータは、実は、原理的に一度に一つのことしかできません。「プリンタで印刷しながら、動画再生だってできるじゃないか」と思われるかもしれませんが、それは、コンピュータにさせる仕事を数億分の1秒単位で細切れし、取っ替え引っ替え行っているため、人間には同時に複数の処理をこなしているように見える、と言うだけの話です。

Core2, Core2Duo など1つの部品パッケージの中に複数のCPU回路を搭載している機種もありますが、せいぜい2つ、多くて4つが現在の技術では限界のようです。

人間の脳も、当然ですが同時に複数の処理をこなせるようになっています。こちらは本当に複数の処理を別々の脳の部位で行っているからで、神経間の情報伝達は、実は電気信号に比べると比較にならないほど遅いものの、かくも複雑な処理を難なくこなせています。

そして、現存のコンピュータと人間の脳の違いは、この並列処理性にこそあるのではないかと思っています。

昔のSF作家が夢見た、人間の代わりに働いてくれるロボットや人間のように言葉を操るコンピュータを実現させるには、もちろんさまざまな困難が想定されますが、この並列処理性は第一に解決されるべき問題でしょう。

そこで「メガコア」CPU、つまり数万単位のCPU回路が内部で協働して働くというハードウェアの登場が待たれるわけですが、もしそれが実現したならソフトウェアの方も、特にオペレーティングシステムは、設計思想を根本的に改めなくてはならなくなってくるでしょう。プロセスやジョブに1つに1コア丸ごと割り当てるのは分かりやすく単純な例ですが、現在でも1CPUで複数のジョブを(見かけ上は)処理できているのですから、これは少々無駄が多い。そうではなく、プロセスやジョブを脳細胞の1つと考えて、それらの間でプロセス間通信を行うことにより、人間の脳をシミュレートする、という使い方の方が興味をそそられます。

脳細胞1つあたりが処理する情報は極めて限られたものですが、人間の脳ではそれが140億個ほど集まっており、よく言われるように、一生のうち実際に使われるのはそのごく一部ということですので、多めに見積もって10%が使われるとして、約14億個のプロセスが相互に通信できる仕組みを作ることができれば、あるいは人間らしきものが生まれてくるのかもしれません。もっと機能を絞り込んだものであれば、メガコアと言わずキロコアくらいのCPUでも実現できる可能性はあります。

ハードウェアも脳神経学も素人の私ですが、こうしたことに想像をめぐらせるのは楽しいものです。

世のニートたちよ、安心しろ。総理はお前らの仲間だぞ!

鳩山総理の政治献金問題について、ぜひとも言っておきたいので書かせていただきます。

いやぁ、月々1500万円のお小遣いってのも豪気ですよねぇ。www さすが一国の総理ともなると我々庶民とは桁が違いますな。

私も親と同居しているせいか、妹からは「ニート」呼ばわりされて不愉快な思いをしていたのですが、鳩山総理もお仲間だったとはついぞ知りませんでした。

最初は「身内でお金を回している(自分の財産使っている)んだから、さほど問題ないんじゃないの」と思っていたこの問題ですが、それじゃあ世のニート達が浮かばれないと思ってキーボードを叩くことにしました。

これからは「鳩山・ニート・内閣」「鳩山・ニート・首相」「鳩山・ニート・政権」と間に「ニート」という言葉をはさんで呼んであげましょう。

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