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塩野七生著「神の代理人」読中レビュー

塩野七生さんといえば、イタリアの歴史小説を数多く上梓されていて、歯に衣着せぬ人物評が大変面白い人です。

ここに、世に賞めそやされる使命感に燃えた人間の持つ危険と誤りがある。たしかに彼らには、狭い意味での利己心はない。だが、高い使命のために一身を捧げると思いこんでいるために、迷いや疑いを持たないから、独善的狂信的になりやすい。それで現実を見失う。だから、やり方は大胆であっても、やるひとつひとつが不統一になるのである。結果は失敗に終る。

上の引用は16世紀、キリスト教会の頂点の座である法王を勤めたジュリオ二世という人物に対する著者の評価。ジュリオ二世は法王の権威、わかりやすく言うと法王領を守りたいがために、フランス、ドイツ、スペイン、ベネツィア共和国などの周辺諸外国をとっかえひっかえ「毒をもって毒を制す」的に利用しました。

名指しすることは控えさせていただきますが、私にもこれに当てはまる知人が一人います。彼の志の高さと熱意たるや文句のつけようのない立派なものなのですが、私から見るとやや現実離れしていて、もう少し腰を据えて取り組んだ方がいいのに、結果を求めて次のことに手を出すという感じで、どうも落ち着きが感じられない。

かく言う私も名前に似ず飽きっぽい性質なのですが、彼と違うのはそれを自覚しているという点です。志だってあるけれどもあまりそれを表に出すことはありませんし、また適度に利己的でもあります。早い話、「お金にならない仕事はしない」ということです。誤解のないように言っておくと「お金になりそうな仕事」はします。お金になりそうかどうかは自分の勘で判断するしかなく、往々にして外れることもあるのですが。(笑

特に、声高らかに自分たちのしていることを「すばらしい」「画期的」と評している集団は軽いカルトとさえ言えるかもしれません。普通だったら「ああすればよかった」「こうすればいいのに」と常に反省の目を自分たちに向けるものです。それができなくなっているというのは自己チェック機能が失われた証拠で、一種の老害でしょうね。

「仕事は何をしてるんですか?」

例えば合コンとか、例えばお見合いとか、例えば飲みの席とかで、表題のようなことをよく聞かれるのですが、どう答えたらいいものか、いつも思案してしまいます。

「IT企業の社長してます」と言うのもアレなんで、最近は「計算機屋です」と答えるようにしています。一瞬意味がわからないようで、たいていは「?」マークが頭の上に浮かんだ表情をしてくれます。(笑

自分で言うのもなんですが、パソコンの納入、コード書き、サーバ&システム保守、ユーザサポートなどなど、個人でできる範囲のことはたいていやっていますね。ずっと前に、田舎のIT屋は町医者と同じで、内科も耳鼻科も皮膚科も外科もやらなくてはいけないというようなことを書きましたが、その姿勢は変わっていません。

私の知人は自分のことを「IT土方」と言っています。その人はスキルも知識もモチベーションも自分より数段勝っているのですが、「土方」と自称するあたり、カッコイイっすね。私は雇われる立場じゃないのでそうは言えませんけど。

私はこの世界にサーバ&システム管理者として入ったのですが、いつの間にかコードを書くようになっていましたし、こっちに帰ってきてからは他人の使っているコンピュータの面倒までみるようになりました。でもやっぱり年のせいかコードを書くのが年々億劫になっています。ただ、どう書いたら楽かは知っているので、書き出したら結構早いです。

田舎でこの手の仕事をしていて一番楽というか幸せに感じるのは「納期」や「締切り」が絶対ではないということです。誤解のないように言っておくと、納期がないわけではないんです。ただ、その決まり方がかなりゆるい(「夏になって忙しくなる前」とか「台風シーズンが来る前」とか)ですし、多少お客様をお待たせさせることになっても、都会で仕事をしているときほど大きな問題にはならない。それよりも大切なのは、「何か起きたときにすぐ対応できる」姿勢を示しておくことですね。電話一本ですぐサポートに回れるというのはかなり信用を得られるようで、好評をいただいています。

ビッグマウスを叩かせていただくと、弊社があるかないかで「鴨川の情報化の早さが10年違ってくる」と言われるような存在でありたいと思っています。

国の違いを実感するには

私は元々異文化大好き人間なので、日本から一歩も出たことがないにも関わらずいろいろな国の外国人とつきあいがあります。中国・韓国・イギリス・ア メリカetc… 国際人を気取るつもりは毛頭ありませんが、田舎暮らしをしていることを考えればまあまあ頑張っているほうではないでしょうか。

そんな私が最近不思議に思っていることがありまして、というのは「中国人はアメリカ人はいったい歴史の授業をどの辺りから始めるんだろう?」という ことです。商(殷)・周・秦・漢・・・と中国の統一王朝を覚えている人も多いかと思いますが、仮に商からだったとして、今調べたら「紀元前17世紀頃か ら」始まった国だそうです。紀元前17世紀ですよ。今からざっと3600年前ってことです。考古学上の実証は完成を見ていませんが、その前に夏(か)とい う王朝の実在性もかなり高くなっているとのことで、となると中国の歴史は紀元前2070年頃、今からほぼ4000年前から始まることになります。

唖然。皆さんが覚えている日本史で一番古い年号は何ですか?「無事故(645)で終わった大化の改新」じゃないでしょうか。私もそうです。で、そ れってたかだか今から1365年前のことです。まあ大化の改新が日本の始まりとは言えませんけれども、どう贔屓目に見ても、中国の学生はまともにやったら 日本の学生の2倍半は年号を覚えなければならない計算になります。果たしてこれが可能なのか?という疑問があります。

話は変わってアメリカの歴史授業について。皆さん知ってのとおりアメリカという国には様々な民族が共存しています。アングロサクソン、アイルランド 系、アフリカ系アメリカ人、ネイティブアメリカン(インディアン)、華僑、ロシア系、イタリア系、ドイツ系、そして最近富に人口比率を増やしているヒスパ ニック系。イスラム圏からの移住者もきっといるでしょう。

で、こんなに違う民族がいて、まともな歴史の授業なんてできるんかいな?と思ってしまいます。例えばコロンブスの「発見」以来、ヨーロッパからの移 住者が先住民族を排除しながら、もっとわかりやすく言うと虐殺しながら、自分たちの領域を広げてきたという事実があります。これなんか授業でどう取り上げ るんでしょうね。もっとわかり易く言えば、オバマ大統領が言及したように、つい最近まで有色人種に対する差別は公然と行われてきましたが、これなんかも授 業でどう説明するんでしょうか。きっと白人の先生と黒人の先生では教え方が違うのかもしれないですが、それは公平な教育と呼べるのでしょうか。

現イラクはメソポタミア文明発祥の地、つまり史上最古の文明が生まれた土地ですが、当時の人たちがアッラーに帰依していないことは明白です。代わり にアン、エンリル以下、日本の八百万の神にも負けないほどの超多神宗教を信仰していました。という事実を現イラクで歴史の授業として行えるのでしょうか。 甚だ疑問です。

というわけで、国ごとにどう違いがあるかは、その国の歴史の授業がどうなっているかということを想像してみると、日本とはだいぶ違うだろうということが察せられますし、今の世界状況がどうしてこうなっているのかということを知る、一つの手がかりになるかもしれません。

私は世界史が万年Dのダメ学生でしたが、最近は積極的に外国の歴史に興味を払うようになりました。特に古代史を学ぶと、人間ってこの数千年間あまり変わっていないんだな、という認識が持てるのでオススメです。

表現することは傷つけることだ

という言葉を聞いたことがあります。誰の言葉だったかは失念。

どういうことかというと、

あなたが何かを公に言ったり書いたりする度にそれによって傷つく人が必ずいる。その上で大切なのは、誰も傷つけないように配慮することではなく、傷つけていることを常に自覚し続けることだ。

というのが主旨だったように記憶しています。

私もこのブログで半ば確信犯的に人の心にぐっさり刺さる発言をすることがよくありますが、そうしている自覚はいつも持っています。ただ、エクスキューズをさせていただけるならば、傷つけることそれ自体を目的としているわけではなく、発言したいことを発言する、その結果として誰かを傷つけることになってしまうことと、言いたい欲求とを常に天秤にかけて判断しています。だからといって許されるわけではないのですけれども。

「お、今日はまた尖がったことを書いてるな」と思われたら、その裏で高梨は結構ギリギリの判断をしているのだとお考えいただければと思います。

「やって楽しいことというのはたいてい悪いことだ」

ということに気づくまで、私はなんと人生の3分の2を費やしました。ああなんでもっと早く気づかなかったのか、悔やまれるばかりです。

とはいえ、小心者の私ができる悪事なんてたかが知れております。せいぜい○○したり××したりするくらいです。

で、ここからが本題なのですが、法律とまではいかなくとも、既成の「ルール」とか「決まりごと」と呼ばれるものは、一度は疑ってみる価値があるのではないかと思っています。特に「良識」とされているものについては。

何も「積極的にルール違反をしましょう」と言っているわけではありません。「悪法も法なり」ですから。そうではなくて、何かルールや決まりごとが自分の間尺にあわないと感じたら、ルールの方を疑ってみるという考え方はあってもいいのではないかということが申し上げたい。

でなければ、世の中変わりませんし、良くもなりません。まあ一般的に言って良識から外れていることは「悪い」とされている場合が多いですから、世の中を良くしようと思ったら悪いことを考えてみる必要がある、という矛盾した結論に落ち着きます。

で、どうもこういう考えをするのは春愁に富む若者、それも男性に多いようで、年取った人は何につけても変化を好みませんし、女性はなぜかルールというものが大好きなようです。もちろん例外はありますが。前者については理由が察せられるものの、後者はなぜなのか腑に落ちないでいます。若い女性なんて一番社会的に抑圧されているはずなのに。

オンラインでのコミュニケーションには限界があります

メール、電話、はたまたSNS、いやいやチャット、などなど、コミュニケーションの手段がかくも多様化している現在、私が言うまでもなく、それに伴うトラブルや犯罪が発生しています。

そこまで行かなくとも、メーリングリストで意見がぶつかったり、 すれ違いが生まれてしまうなんていうのは日常的に起こっていることでしょう。

私も昔はオンラインでのコミュニケーションに偏向していました。今でもそうかもしれません。

でも、これは経験から言えますが、オンラインでのコミュニケーションには限界があります。やっぱり人間は顔を合わせないと分かり合えません。

ネット上で話がこじれて、下手にオンラインだけで解決しようとして、余計ややこしくなってしまった例を私はいくつも知っています。それも、普段メールを使いこなしている、いわゆるネット上級者ばかりの場でそうなってしまうのです。

ただ、普段顔を合わせる機会があって、それを補完する意味でということなら、ネットほど便利なものはありません。早用は効くし、確実ですし。

今日、ある小学校の校長先生とお話したのですが、要件が済んで、最後に「今はコミュニケーションの手段がメールになっちゃってるものなぁ」と一言ポツリとおっしゃったのが心に引っかかってこんなことを書いています。それだけではないんですけど、そうなりつつあるのかもしれませんねぇ。

何が「私ほどではないにしろ」だ!>自分

この3日間でとても愚かなことをしでかしてしまいました。あんまり情けなくてちょっと詳しくは書けないんですが、自分が大馬鹿者だということに改めて気づかされました。行政職員のことを無能力呼ばわりする前に、お前がもっとしっかりしとけって感じです。

もう二度とこんなことはしないと皆さんの前で誓います。

いやなに、心配はご無用。一時ヘコみはしましたが、もう気持ちに整理はついてますんで。

ブログやっても金にはならんよ。という話

よく、「ブログ&アフィリエイトで高額収入!」みたいな広告や雑誌の記事を見かけますが、ブログを一生懸命書いても、それに見合う収入は得られません。大切なことなので二度言いますね。

ブログを一生懸命書いても、それに見合う収入は得られません。

まあせいぜい月に2万~3万稼げればいいほうです。あなたがよほどの有名人か、専門的知識に精通しているか、あるいはダークな手法を取るかしない限り、そんなもんです。

「お前だって自社サイトにアフィリエイト貼ってるじゃないか」って?そりゃそうです。なぜなら、

客先で、自分でクリックするために貼ってますから。(笑

まあそれだってあんまりやらないですけどね。ただ、自社サイトならまず忘れることがないので、セルフクリック専用に貼ってます。

知り合いで雑誌の原稿頼まれて書いてるやつがいますけど、その原稿料だってたかが知れてますよ。ましてや無名の一般人が自分のブログに広告貼ったところでその収入だけでは・・・ね。

ただ、ブログを書くことが全く意味がないかというと、そうでもありません。本で読んだ言葉を借りるなら、

ブログはあなたのファンを作るためのツールである

と割りきれば、十分その効果は期待できます。特に私のように、身分を明かして、しかもちょっとユニークな立場(田舎のIT社長)にある人は周りの反応を直に聞くことができますし、あなたが実店舗を構えて商売しているなら、顧客獲得に繋がることもあるかもしれません。

ただし、会社の広報担当とか一社員いう肩書きでは面白いブログを書くのは難しいかもしれませんね。なぜなら、どこまで情報を明かしていいか、決裁できないからです。そして、貴重な情報を得られないブログは面白くないからです。この点、ブログは個人向け、もしくは小規模経営の会社向きと言えるでしょう。

先ほど挙げた「反応を直にきくことができ」るというのは、結構やってて面白いです。もちろんコメントもありがたいですけど「社長!こないだ書いてた○○のこと・・・」とか「高梨君もブログで書いてたけど・・・」と顔を合わせたとき話のタネになることが、よく、いやしばしばあります。特に私はベシャリがあんまり得意ではないので、向こうから端緒を開いてくれるというのはありがたいんです。

最近、twitterも始めてみましたが、あれ(140文字以下)では自分の思うことは書ききれないし、流れてくる情報もそんなに面白くないし、あんまり興味を持てないですね。やっぱりブログがやってて一番面白いです!

気づいたらFF以外のブラウザがことごとく動かない・・・

たまにはChromeでも試してみるかぁ・・・、と思って Google Chrome を立ち上げると、エラー。

んじゃ、IE8はどうかな、と思って立ち上げるとやっぱりダメ。

あれ、そんじゃSafariはどうかな、と思って立ち上げると、これもダメ。

・・・。なにこれ|-`).。oO(・・・)

数日前にインストールした ESET NOD32 V4が怪しいと思ってアレコレためしてみましたが、上記3ブラウザは動作せず。Web屋がこんなことでいいんだろうか。いや(・A・)イクナイ!!

そろそろクリーンインストールの時期ってことですかね。というか、Windowsで使ったVirtualBoxがかなりいい感じだったので、ベースOSはUbuntu、ゲストOSとしてWindows XP という構成にしようかと考えています。 使っているアプリの一覧を眺めながら対策を検討中。

ユーモアについて

ユーモアやジョークについて大真面目に語るというのもかなり興ざめな気もしますが、まあお暇でしたらおつきあいください。

さて、私は冗談やシャレを飛ばすのが大好きです。もちろんウケないこともままあるのですが、うまく笑いを取れたときには心の中で快哉を叫び、一人悦に入っています。

もちろん人を笑わせることそのこと自体も好きなのですが、なぜそうするかと問われれば、「ユーモアは人が人にできる最小の奉仕」だと思っているからです。

もう10年も前のことになりますが、私の従姉がガンに冒され、県立ガンセンターに入院したことがありました。その従姉は、身内びいきを差し引いても、美人で愛想がよく、皆に好かれる存在で、もちろん私も大好きでした。全てを奪う最終病魔が彼女の体内に見つかったのは、結婚して子供が生まれ、これから幸せな生活が始まる、と誰もが思った矢先のことでした。ご存知の通り、若いうちのガンというのは進行が早く、私が見舞ったときには髪の毛も抜け落ち、骨と皮ばかりになってしまっていました。

病室で彼女に会ったとき、私は一瞬かけるべき言葉を見失いました。だってそうでしょう、死が目前まで迫っているのは従姉だってわかっています。もうすぐ家族、友人、全ての人、全ての存在に別れを告げて去って行かなければならない者に向かって何と言ってあげればいいかなんて、誰がわかるでしょうか。

内心泣き出したい気持ちをぐっとこらえ、私にできたのは、従姉の昔のエピソードを交えながらからかい倒して涙が出るほど笑わせることでした。「お姉ちゃん、昔こんなことしたよねぇ」「あのときはたまげたねぇ」

それからまもなく従姉は亡くなりましたが、ベッドの上で笑い転げていたあの一瞬、つらい現実を忘れさせてあげることができただろうかと時々思い返しています。きっとできたよね、アッコ姉ちゃん。

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