私が、個人的に心の中では、無宗教であり、いかなる神も信じていないことは前のエントリでも述べましたが、それについて改めて述べておきたいと思います。
どうも無宗教というと「科学至上主義で、個人主義で、宗教を否定することで格好つけている」という手垢で真っ黒になったステレオタイプにはまっている人もいるようですが、私の中で、宗教の一番鼻持ちならないのは、まず「信じる」ことを多かれ少なかれ前提としていることです。キリスト教やユダヤ教、イスラム教は神の存在を信じなくては成り立ちませんし、神道だって神様に対して何やかやの儀式をしているわけでしょう。これは自然宗教と創唱宗教の別なく同じことです。仏教も宗派によるかもしれませんが、特定の念仏なりを唱えれば極楽浄土に行けることになっていますね。
対するに、 私の好みにあっている哲学は、まず「疑う」ことから始まります。哲学的な発想には「本当にそうだろうか」「なぜこうなっているのだろう」という視点がかかせません。「哲学的な発想」なんて書くとえらく難しくて高尚な感じがしますけど、要は、何についても当たり前のことと思わず、自分の頭を使って考えてみる癖をつけるということです。「このやり方で本当に効率がいいのだろうか、もっと工夫できるんじゃないだろうか。」「1と1を合わせると2になるけど、1つのものを分けるとやっぱり2になる。『合わせる』と『分ける』は全然違う行為のはずなのに、なんで結果は同じなのか」「地面の下から、動物の骨のような形をした石が出てきたが、今いる動物のどれとも似つかない。神の所業でないとしたらこれはいったい何なのだろう」「リンゴは木から落ちてくるが、月は地球に落ちてこない。なぜなのだろう」「光が波動だとすると、それを伝えているのはどんな性質のものなのか」…。現代の文明はこうした哲学的な、懐疑的な視点なくして語れません。
然るに、宗教は人類に一体どんな貢献をしてきたでしょうか?毎日毎日、世界中の人が神に祈りを捧げているからといって、彼らの願いは聞き入れられるのでしょうか?そして、そうした祈りをしかつめらしくもっともらしく強制する宗教家に、果たして存在理由はあるのでしょうか?
それから、無宗教者が「個人主義者」であるという主張については、ちょっと受け入れがたいように思います。私は国家のためなら、命を捨ててもいいという覚悟はいつもあります。まあ私が命を捧げたからといってどれだけ役に立つかはわかりませんが。(w 国旗に対して敬意を表することに何の抵抗もありませんし、この機会だから言いますが、消防の出初で国歌を斉唱しないのはおかしいと個人的には感じました。
宗教家と哲学者を扱ったジョークにこういうものがあります。
宗教家が哲学者に言った。「哲学者とは、真っ暗な部屋で目隠しをして、いもしない真っ黒な猫を見つけようとしている馬鹿者のことですな。」
「なるほど、そうかもしれません。」哲学者は言った。「ですが、宗教家はその猫を見つけてしまうんですな。」
私は黒猫を探しているほうが性にあっていそうです。