Category Archives: 読書道

ほぼ読了レビュー「時間について」

この本も例によって市の図書館で借りました。最近、あんまり本にお金を使っていないなぁ。

さて、以前のエントリで「哲学に憧れている」というようなことを書きましたが、「時間」は哲学で古くから取り上げられているテーマで、有名なところでは「ゼノンのパラドックス」というのがあります。カントやハイデッガーといった有名な哲学者も時間について語っており、特にハイデッガーの「存在と時間」はその代表的な著作でしょう。私は途中で読むのに挫折しましたが。

ただ、最近は「時間」とか「宇宙の始まり」というテーマは哲学者よりは物理学者あるいは天文学者の専売特許になってしまっていて、文系の私にとっては残念なところです。

この本も宇宙物理学が専門の著者によって書かれていますが、数式はほとんど出てこず、専門外の者にも読めるようになっています。アインシュタインがどのように時間と空間、重力を結びつけたか、双子のパラドックス、タキオン、タイムトラベルの可能性などが一通り語られ、最後の方で心理学的な立場から人間が時間をどのように認識しているか、が紹介されています。

文系なのに科学オタクの私は、一応アインシュタインの相対性理論、量子力学の骨子は掴んでいたのでその辺りのことは割とすんなり読めました。

あくまで哲学的に、揺り椅子の中で時間について思いをめぐらすのもそれはそれで楽しいのかもしれませんが、物理学・天文学が目覚しい前進を遂げている21世紀の今、科学の側から時間を考えてみなければならないのではないかと思っています。その意味において、哲学の一領域としての時間論は針の上で踊れる天使の数を論じる神学とあまり変わらないものになっているのかもしれません。

「ネメシス」読中レビュー

ネメシス〈上〉 (ハヤカワ文庫SF)先日は世界史小説が好き、というようなことをいいましたが、実は中学のときに国語の授業で星新一を知って以来、SFのファンでもあります。国内のSF作家というと言うべき人は少ないですが、海外には多数いて、「英語を勉強すれば、海外の小説も読めるんだ!」と当たり前のことに気づき、それが英語を勉強する動機になったというのもあります。実際、スティーブン・キングやロアルド・ダールといった作家の短編は原書で読んだこともあります。

さて、今回読んでいるのはアメリカを代表するSF作家、故アイザック・アシモフ後期の作品「ネメシス」です。アシモフというと、ロボットもの(「アイ・ロボット」は映画にもなりましたね)、銀河帝国ものが有名ですが、この作品はそのどちらの流れにも組しないという点で異色の作品です。書店でハードカバーをみかけたことがあるのですが、そのときは買いませんでした。ハードカバーで値段が高かったこともありますが、他のシリーズを読み終えていなかったので、まだ手をつけないでおこう、と思ったというのもあります。今回は例によって鴨川市立図書館で借りてきました。市の図書館、なぜか結構私の好みの本を置いてくれています。私以外にも好事家がいるんでしょうかね。(笑

確か、この作品には人類以外の知的生命体が登場すると何かの書評で読んだ気がするのですが、定かではありません。それら知的生命体を巨匠がどのように描くのか、楽しみでもあります。

「アラブが見た十字軍」読中レビュー

恥を忍んで言いますが、高校のとき、社会はいつも赤点ギリギリでした。特に世界史はひどかった。こっちであれやこれやが起こっている一方で、あっちで起こっているあれやこれやまで覚えなければなりませんから、ほとんど脳みそパンク状態です。

が、その反動からか、最近、歴史小説、特に外国の歴史について書かれた本にハマッています。塩野七海さんの「ローマ人の物語」とかはハードカバーが出るたびに金に糸目をつけず買っていました。

ただ、気をつけているのは、一方の歴史観に染まらないこと。ガリアを征服したカエサルは確かに偉大でしたが、一方で征服された側の視点というのもあるだろうな、と思って佐藤賢一さんの「カエサルを撃て!」も読みました。どちらも「物語」ですから多分に著者の思い入れがあり、それを承知で読む分には非常に参考になります。

さて、今回読んでいるのは市の図書館で借りてきたアミン・マアルーフ著/牟田口義郎・新川雅子訳「アラブが見た十字軍」です。

これに出てくるフランク(フランス)軍というのがひどい。征服したイスラムの地の財宝を略奪するのは大目に見るとしても、 ムスリム(イスラム教徒)の人肉まで焼いたり茹でたりして食べたというのですから、ほとんど食人鬼集団です。

今でこそヨーロッパ文化の顔みたいな、優雅で洗練された文化を誇っているフランスですが、1000年くらい前にはただの蛮族、それも相当狂気じみた民族だったということがよくわかります。

これはなにもフランク族に限ったことではなく、ブリタニア(現イングランド)では戦って勝った相手の生首を家門にかけて悪魔祓いのしるしとしていましたし、中国では籠城が長引いて糧食が底をつくと、子供を殺して食べることが普通に行われていました。首仮族や食人種は、なにも南洋の専売特許ではありません。

だから人種の坩堝である米国で凶悪な犯罪が頻発しているとしても、何も不思議なことはありません。あれは全てご先祖の血がそうさせているのです。

あまりプロトタイプを植えつけるのはよくないかもしれませんが、ヨーロッパ人だからといってゆめゆめ先進的で優雅だなどと思うことのなきよう。一皮剥けばその正体は首狩族・食人鬼の末裔なのですから。

「哲学は人生の役に立つのか」読中レビュー

今、木田元著「哲学は人生の役に立つのかという本を読んでいます。タイトルに惹かれて買ったのですが、そのことでもお分かりのように、私は「哲学ミーハー」です。デカルト、ヘーゲル、カント、ハイデガー、サルトル、などなどといった名前を聞くともうそれだけで「萌え」てしまいます。(w その哲学を理解しているかというとまた別の話で、男の子が飛行機や電車に憧れるような、そんな淡い憧憬を哲学というものに抱いていて、長い人生の間でいつかは理解できるようになりたいと思っています。

まあ自分のことはどうでもいいとして、この本の始めの方に書いてあった文が興味深かったので引用します。

 私が問題にしたいのは、技術は、人間が、あるいは人間の理性が産み出したものだから、結局は人間の理性によってコントロールできるはずだという、安易な、というより傲慢な考え方です。本来は、技術は理性などとはちがった根源をもち、理性などよりもっと古い由来をもつもので、理性などの手に負えるものではない、と考えるべきなのではないでしょうか。

著者に言わせると、人間が技術を発展させてきたのではなく、技術そのものが意思をもち、人間を人間たらしめたのだということなんですね。「利己的な遺伝子」の最後の方で出てくる「ミーム」という概念通ずるものがあります。

私は一技術者として「技術は人の役に立つためにある。」と信じていましたから、この見方は新鮮でした。人間が技術を使っているのではなく、技術の方が人間をコントロールしているなんて思いもよりませんでした。

まあ確かにそういう面もあるのかもしれない。地球を何回も破滅させることができる兵器が現に存在し、電車に乗り込んだ高校生がまず何より先に携帯を開く状況を見れば、「技術が人間を支配しているのだ」という主張も頷けないではありません。

でも、それでも私は理性を信じたい。技術は確かに危険な、マイナスの面も持ち合わせていますが、結局は人間が人間のために発展させたものなのだから、理性でコントロールできないはずはない、と信じる、というより願っています。楽観的すぎるでしょうか。

例えば、コンピュータプログラムには「バグ」と呼ばれる欠陥が、必ずといっていいほどあります。 もちろんテストはするのですが、それでも完全に除くことは難しいものです。自分の書いたプログラムのバグを潰すのは根気のいる作業なのですが、「自分で作ったものなのだから自分で解決できないはずがない」と思ってやっています。パソコンのトラブル対応にしても、「人間が作ったものなのだから人間に直せないはずはない」と思って、というよりほとんど信じてやっています(程度にもよりますが)。

自分でも大変不思議なことに(苦笑)、今までのところ解決できなかった問題はないのでこんな会社をやっているわけです。世間的には「技術者」なんて偉そうな肩書きを名乗ってますが、実際はそんなものです。いくら先進の、「すごい」技術でも、その先端のところでは変わらないのではないでしょうか。逆に言えば、けっこう技術って人間臭いのです。

だから、著者の主張に賛成できないことはないものの、もう少し技術というものに安心してつきあって見てもいいのではないかと思っています。

他にもこの本に書かれていることは面白いので、一読の価値あり、です。

マンガばっかり読んでるとローゼン麻生みたいになっちゃうのよ!

4度目の挑戦でやっと総裁になれた麻生首相は「マンガ愛好家」としても知られています。好きなマンガは「ゴルゴ13」。実は私もゴルゴは好きで、「お、麻生さんも読んでるのか」と内心親しみを感じていました。

ただ、それはあくまで読むべき活字の本は読んでいて、その合間にマンガを読んでいるのだろうと思っていました。麻生さん自身、本を何冊も上梓していますし、私もマンガよりは活字の本を読んでいるので。

でも、それは私の思い違いだったようです。普通に活字の本を読んでいれば、あんな間違いは犯さないはず。流行のおバカキャラのマネをしているのかとさえ疑いたくなります。

どうもこの国の政治家の皆さんには「言葉の大切さ」をお分かりになっていらっしゃらない方が多いような気がしています。公約あるいはマニフェストを実現するとかしないとかではなく、それ以前に自分の考えを的確な言葉で伝えること。これは政治家として不可欠な能力のように思いますがどうでしょうか。

鴨川市立図書館イイ!(・∀・)

今まで、読む本については「身銭を切るからためになる」「本くらい自分で買えんでどうする!」と思っていましたが、文庫化されていない読みたい本が市の図書館にあることを知り、「まあ使ってみるか」と軽い気持ちで借りました。

やばいっす。こりゃ当分本にゼニを使うことはなさそうです。市内の本屋さん、アマゾンさん、何より作家・著作家の皆さんごめんなさい。高梨はタダ本読むことにします。今回だけで1800円のハードカバー4巻、締めて7200円も浮かすことができました。

就寝時に本を読む悪癖のある私にとっては2週間の貸し出し期間はちょこっとだけ短いのですが、そこは都合するとして、あの市立図書館にある何万冊もの本がロハでしかも合法的に読めるというのは素晴らしい。

微妙に既視感を感じたので、つらつら考えてみると、幼い頃、母に連れられて公民館の図書館に連れて行ってもらったときの興奮を再び感じていることに気づきました。あの頃はあらゆる子供向けの本借りまくった覚えがあります。小学校の図書室にもずいぶんお世話になりました。に比べて中学の図書室はしょぼいように思えるのは小遣いで本を買うことを覚えたせいでしょうか。高校のときはパン代と偽って駅構内の本屋さんで文庫本を買い、電車の中で黙々と読んでました。大学の図書館は蔵書数こそ多かったけれど、当然ながら学術的な本が多く、エンターテイメントとして読む本はあまりなかったように思います。

というわけで、図書館からは縁が遠くなっていたのですが、 市の図書館は素晴らしい。浅田次郎も宮城谷昌光も東野圭吾もちゃんとあって仕事で鴨川に出かけたときのついでにサクっと借りられます。ちゃんと表紙カバーもついているので装丁も楽しめる。

読書の秋、好きな作家を片っ端から読んでしまおうと思います。なんかコミットしたい気も沸いてきました。 WebOPACを携帯向けにスクレイピングでもするかな。

たったふたつの冴えない値段

今、Amazonから「たったひとつの冴えたやり方」の改訳版のお知らせメールが届きました…って値段がなんと1,050円!おいおい正気か、早川書房!

・・・でもよくよくみると、これ表題作のみの単行本でソフトカバーでした。うーん、微妙な値段設定・・・。買わないけど。

一方旧訳版の文庫が819円。なんか最近洋物の文庫が高くなりましたよねぇ。原材料費高騰の影響か知らんけど。文化の危機ですよ、ホント。

文庫じゃなくてハードカバーで読みたい和物の本があるんですけど、市の図書館にあるので今度借りてこようと思います。 そういや市の図書館って行ったことないかも。

ブログ読者と飲みました。その他

2ヶ月ほど前に、やはり天津出身でITに関わっていらっしゃる方からこのブログを通してご連絡いただき、機会があったらお会いしましょうということになっていたのですが、先の土曜にお会いすることができました。PC, IT に関しては私よりもずっと先輩の方です。天津の飲み屋でそっち方面の話をすることって非常に稀有で、楽しい時間を過ごさせていただきました。ありがとうございました。


 昨日は、地元商工会の主導でウェブサイト構築に関するミーティングがあり、出席しました。でも正直なところ、諸事情により、あまり乗り気にはなれていません。今後、具体的なご依頼があったらお受けするという感じかな。ちょっと距離を置きたいと思っています。


最近、文庫本の値段が高くなりましたよね。Amazon で読みたかったSF小説を買おうと思ったら900円以上もしました。その割にハードカバーはあまり値あがってないのはなぜなんだろう。本は身銭を切って読む方だったのですが、借りて読むようにしようかなぁ。


なぜ本を読むか

高梨は昔から本を読むのが好きです。これがいいことか悪いことかは一概に言えません。確か、ショーペンハウエルは読書を悪いことのように言っていたと思います。中島敦も「文字禍」という作品の中で、文字に依存するようになってからの人類にもたらされた弊害を描いています。実感としても本から得られた知識が役に立つ場面というのはそうありません。

と書くと、「じゃあ本読むのなんか止めればいいじゃないか」という声が聞こえそうですが、そうはいかないんです。なぜなら中毒しているから。

例えば、現在日本では麻薬の使用が法律的に禁止されています。拳銃を持つことも禁止。連続猟奇猟奇殺人事件も自分でやればほぼ確実に死刑。

ただし、それらについて書かれた本を読むのは、完全に合法です。本の中で麻薬中毒者や猟奇殺人の行動を追体験するのは、少し想像力が要りますが、なかなかに楽しいものです。小公女は本の中で、空を飛んだり知らない外国を訪れるのが趣味だったようですが、そんな穏かなことに限らなくたっていいわけですよね。子供の将来を考えるのであれば、小さいころから本や物語を好きにさせるのは慎重になった方がいいでしょう。まずプロスポーツ選手にはなれないでしょうし、目も悪くなるので、パイロットやCAも難しくなります。懐疑的な視点を身につけてしまい、職業軍人(特に下士官)も向かないかもしれません。


日本は小説発祥の地?

そもそも文字は事実を記録するために発明されたものですが、上にも書いたように最古のバーチャルマシンという面もあります。ここで、本の中ではいかに早く人間が月へ行くことを描いていたかを示すために、シラノ・ド・ベルジュラックの「月世界旅行旅行」を挙げようとしたのですが、ハタと思いつくことがありました。そう、日本には「竹取の翁の物語」、通称「かぐや姫」がありますよね!

かぐや姫に限らず、事実の記録ではないフィクションが文字化されたのは日本が初めてなのではないでしょうか?ここで神話の類は除きます。そもそも神話はフィクションとしてではなく、まさに実際に起ったこととして書かれていたからです。(アメリカにおけるファンダメンタリスト達はまさにその視点から、学校で進化論を教えることに反対しています。) 日本神話やギリシア神話はフィクション性が高いとは思いますが、ギリギリアウトにさせてください。それらを語る神官は実世界のことを説明するために、実際に起ったこととして真剣に語っていたと思うからです。

思うに小説は紙の発明と密接な関係があります。筆と紙で、女性の手でも簡単に文字が書かれるようになって初めてフィクションという分野が生まれたのではないでしょうか。実際、紫式部の「源氏物語」は世界最古の小説ということになっていますしね。こんな仮説はきっと私以外の誰かが考えているかもしれませんが、ちょっと思いついたので、書いてみました。

Amazon.co.jp はロングテール戦略から引き上げか?

この辺の本屋で売られていない本は Amazon で買うことが多かったのですが、最近、欲しい作家の本が置かれていないケースが多くなりました。マーケットプレイスでは出品されているのですが、本はなるべく新品で買いたいクチなので、ちょっと不便。Amazon といえばロングテール 的販売戦略で有名だったのですが、その方針はマーケットプレイスに任せる!ということなのかもしれません。

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