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想像力の欠如は時として命に関わる

クリエイティビティ、つまり「創造力」の話ではありません。「想像力」についてちょっとお話をさせていただきたい。

私の周りでは概して「経験or実績第一主義」が優勢です。そして、どちらかというと、都会よりも田舎の方がその傾向が強いようです。つまり「何事もやった人がえらい」裏を返せば「やってない奴は口を閉じておけ」という傾向ですね。さらに言えば「何もしてないやつが批判するなどもっての他」となるでしょうか。確かに心情としては大いに分かりますし、私自身そう思うときもあります。

ですが、果たしてそれでいいのか、ともときどき思うのです。

まあ私とおつきあいいただいている方はよくご存じの通り、私ほど無責任でいい加減な奴はそうそういないでしょう。約束は破り、予定には遅刻し、連絡もすっぽかし、飛行機の切符は無くし、といった具合で「すいません」「ごめんなさい」を言わない日はないんじゃないかと自分でも思うくらいです。私が日頃何か言われたら、すぐ対応するようにしている、少なくともそうするように心掛けているのは、放っておくと自分で忘れてしまうことを恐れているからに他なりません。

そんな私ですが、いろいろ妄想することは大好きで「現状のここのところ、ちょっと問題だな」とか、「こうしたらもっと良くなるんじゃないか」と考えたりするのは自分で好きというくらいなので、人よりも得意な分野と言ってもいいかもしれません。ついでに言えば、この癖は自分の仕事にも直結しています。

ただ、そうした視点というのは「現状に対する批判」といえばそうも言えるわけで、あまり論調を過激にすると受け入れられないこともある、というのは30年ちょっとの人生で学んだ数少ない法則です。大変幸いかつ不思議なことに、私の発言は大抵の人が受け入れてくださるので、私自身について言えば、あまりこの点について不満を抱えてはいないのですが。

で、そうした視点には「想像力」が欠かせません。ここで言うのは野放図に大風呂敷を広げたり、空想の世界に遊んだり、ということではなく、「こうしたらこうなる(はず)」とか「これこのままだとヤバい」という、現実に即して考える能力のことです。そういう能力というのは何も特別なことではなく、皆さん日常生活で使っているはずです。

例えば、自動車の運転中は暗黙の想像力をフル活用していることでしょう。「この道は婆さんが平気で道の真ん中を歩いているからスピードを落とそう」とか「もう夕方だから学校帰りの子供がチョロチョロしてるんじゃないか」とか「この横道は子供がよく遊んでいるからボールを追っかけて飛び出してくるかもしれない」とか。言葉にして考えてはいないでしょうが、きっと無意識にそう考えながら運転しているはずです。このエントリの表題で言いたいのはそういうことです。

そうした能力と、例えば活字を追って情景を想像する能力とは別物と考えられることが多いのですが、そうとも言いきれないように私は思います。もし私が人より想像力に長けているとすれば、その力はおそらく読書という習慣に因るところが大きいと言えるかもしれません。

あと、例えば「ユークリッド幾何学が何の役に立つのか」といった意見を耳にすることがあります。おそらく平行四辺形の対角が互いに等しいことを覚えても、それからの人生で役に立つことはないでしょう。ですが、それを証明するまでの過程、つまり「こうだから、こうなり、最終的にこういうことが言える」と論理立てて証明するまでを理解し、自分で追って見せる能力というのは、例えば会議の場で自分の意見に説得力を持たせる上で大変役に立ちます。矛盾している意見に従おうという人は、世の中にまずいませんから。

そう考えると、学校の勉強もまんざら捨てたものではない、と私は思っています。

私にとって不思議なのは、そうした勉学に秀でていたであろう人ちに、往々にして想像力の欠如が見て取れることです。こっちはずっと立って聞いているのに、代読の挨拶文を長々と読み上げる○○長代理の方、日本語教室の生徒が徒歩か自転車で雨の中をやって来たことを知っているのに「なんで他の人を連れて来なかったのよ」と詰る国際交流協会の職員、説明中のプロジェクタースクリーンの前を平気で横切る学校の先生 etc, etc…

それが現状なのであれば、「勉強なんかできなくてもいい」「勉強のできるやつ=悪」のレッテル貼りがされてしまっても仕方ないのかもしれません。私はそうは思わないのですけどね。

ただ、その風潮は今に始まった事ではなく、アメリカでは早くもマーク・トウェインが「トム・ソーヤーの冒険」の中で、シドを頭はいいが心の冷たい子供として描くことで、知識層の傲慢を看破していました。日本でも「論語読みの論語知らず」として学問好きを皮肉った川柳が多くあります。

一方、西欧のことわざには「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というのがあります。意味することは自明かと思いますが「頭の足りない人は自分で失敗しないと学べないが、一を聞いて十を知るような頭のいい人は書物や過去の事例から先を予測することができる」という意味に私は取っています。なろうことならそんな賢者になってみたい、と愚駑馬は切望するものでした。

つん読?7万冊ありますが何か?

先日、また市の図書館に行って3冊ほど本を借りてきました。今寝る前に読み進めています。

で、職員さんに「蔵書されてる本ってどのくらいあるんですか?」と尋ねたところ「だいたい7万冊です」と。

7万冊! ぱねぇ!w

一日に10冊読んだとしても19年はかかる計算になります。それだけの本が俺に読まれるのを書棚で待っていると思うとお尻がむずむずしてきちゃいますよね。よくそれで市内の本屋さんから苦情が出ないもんだなぁ。ある意味民業圧迫じゃないのかしら。

ただ、データとしてなら7万という数はそう多い方でもありません。私が手がけてきた、というよりバグとスパゲティコードを量産してきたシステムはだいたい検索対象が10万以上はあります。今時のハードウェアを使えば、検索の仕方にもよりますが、まあまあ実用的な速度で結果を出せるでしょう。

借りた本の履歴はまんま個人情報なので無理としても、蔵書データを丸ごと欲しいですね。Amazonやブックオフオンラインと連携するとか、twitter経由で感想コメント投稿できたりとか、いろいろ面白い使い方はあると思うんですが。

あと思うのは、学生さん(中高生くらい)に利用しやすいようにするといいんじゃないかと。私は高校生の時、一ヶ月の本代が10,000円越えることも珍しくなかったクチですが、今思うともっと図書館活用してればよかったなぁ。図書館には「日本文学全集」とか古典に分類されるような、カビ臭い本しかないものとばかり思ってました。まあそういうのも確かにありますけど、最近刊行された本も結構、いやほとんど置いてあります。多少入るのに時間がかかるかもしれませんが、本なんて、映画じゃあるまいし1ヶ月や1年読むのが遅れたところで、なんてことありません。

まあそれはいいとして、例えば天津からなら高校生の脚力をもってすれば図書館くらい軽々行けますが、長狭のぜぇご山の奥からだとちょっと辛いかもしれませんよね。あと時間的にも平日の利用は難しいでしょう。この辺、なんとかならんのでしょうか。ブックスキャナでガンガンスキャンして鴨川市内からはオンラインで読めるとか。Googleならやりそう、というか、やってますけど。

iモードセンターのメールボックスがいっぱいになるのを防ぐ方法

iモードメールサービスのイケてなさにはブチ切れそうな今日この頃、Androidユーザの皆さんこんにちは。

さて、このエントリにたどり着いた方はAndroid端末でiMoniをお使いで、iモードセンターのメールボックスがすぐ一杯になってしまい、どうしたものかと悩んでいらっしゃると思います。私がそうでしたから。

いきなりですが、解決方法は

「iモード .Netセンターからのメール受信を拒否する」

です。

iMoniがメールをチェックすると iモード.Netセンターからメールボックスに「誰かがログインしましたよ」メールが届きます(余計なお世話ですが)。元凶はこのメールで、例えばiMoniが1時間間隔でチェックする設定になっていると1日で24通このメールがあなたのメールボックスに入ることになります。これはiモード.NetやiMoni上には現れません。FOMA端末で消すしかないのです。その度にSIMカード抜き差しして、メール受信して、、、なんてやってられるかー!

なので、このログイン通知メール自体を明示的に拒否してしまえば、必要なメールだけメールボックスに入ることになります。

FOMA端末からも設定できますが、このブログの読者のほとんどはPCでしょうから、MyDoCoMoからサクっと設定することをおすすめします。

MyDoCoMoログインした上でこのページで、「拒否したいメールアドレス」に

imode.net_center@docomo.ne.jp  (ドメイン必須)

を入れ、「確認」→「登録」で完了です。

これで、iMoniのチェック間隔を10分にしても、3分にしても(ああ、なんて幸せ!)メールボックスが一杯になることはないでしょう。

また、今までの受信受け入れ設定や拒否設定もそのまま有効です。

なお、このエントリに書かれている内容は無保証です。この設定をしたことが原因で被った被害・不具合に関して、私は一切関知しません。あしからずご了承ください。

2010年3月20日追記

「設定したけど、ログイン通知メールが届く」というtweetが散見されましたので、私の設定を晒します。(恥ずかしい部分は伏せていますw) 参考にしてください。


神戸で肉を食べて来ました。

毎度お馴染みの消防ネタです。3月5日から7日まで神戸に第三まとい会で行って参りました。

行きの道中でちょっとしたハプニング(私が搭乗券を紛失、団長は財布を、副団長は携帯を飛行機に置き忘れ。きっとお二人は私のことをかばってわざとそうされたんだと思っています。)はありましたが、お陰様で全員無事に帰って来られました。


姫路城遠景
泊まったのは三ノ宮というところなのですが、観光地というよりも一都市ですね。姫路城が近かったので、みんなで立ち寄ったあと、自由行動。城にはあまり興味のない私ですが、あの複雑な形を組み合わせて石垣を積む技術はすごいと思いました。

夕食は皆さんまた集まって、会食。当然酒(だけではないですがw)も入り、大いに盛り上がりました。私の周りは牡蛎を食べられない人が多かったので、一人でいくつも堪能しました。

ところで、これは特に女性にお聞きしたいのですが「ハプスブルグ家の歴史」「古代ローマ帝国の歴史」「プレートテクトニクス」「光の速さおよびマイケルソン=モーリーの実験」「人類の起源について」というような話題で会話しろと言われたら、あなたはできるでしょうか?これ実は全て私がホテルの自室に招待した女性とベッドの上で語り合った話題です。もちろん彼女に一仕事していただいた後で、腕枕をしながらお話したのですが、交流を深めたのは何も下半身ばかりではない、ということをお分かりいただけるでしょうか。

意外に思われるかもしれませんが、私の経験上、彼女たちは概してインテリで知的好奇心も旺盛です。言葉は悪いですが、その辺の大卒コンパニオンよりも数段上とさえ言えるかも。のみならず、彼女たちのサービス精神・職業意識の高さもかなりのもので、私自身顔色無からしむる思いをすることも度々あります。

一度もそういう女性のお相手をしたことがない方、そしてもしあなたが経営に関わる身であったら、勉強と思って、お店に行ってみるなり敬意をもってご招待するなりすることをぜひお勧めします。

さて、2日目は一日フリーだったのですが、何をしていたかというと、ホテルの自室でパソコンに向かってました。仕事で緊急に対応しなければならない事態が発生し、その対応をしていたのですが、これも便利なんだか不便なんだかよくわからないないですよね。どこでも仕事ができる一方、どこへでも仕事がついて来るんですから。まあ神戸にまで出かけて日がなパチンコ打っていた同輩もいるんで、似たようなもんかな。

今回の旅行報告はこんな感じです。最後に、今回の旅行の幹事をお引き受けくださり、私自身大変ご迷惑をおかけした塗谷先輩に感謝と敬意を捧げ、エントリを閉じさせていただきます。

理系の衆生は度しがたし

こういう仕事をしているせいか、ほぼ断定的に「学校は理系だったんですよね」とよく言われます。とんでもない!私は高校のころ数学の素養に恵まれず、情報工学系の学部への進学を泣く泣くあきらめ、ガチ文系の外国語学部に進学したという過去を持っています。数学は私にとって片思いの恋人のようなものでした。いくら勉強しても成績が上がらなかったんですから。

でも、今、かえってそれでよかったのかもしれないと思うことがあります。

理系特に工学系学部出身の人たちを見ていて思うのは「図やグラフや表、写真で表せば相手に伝わる、あるいは文章よりも伝わりやすい」という大いに間違った観念を持っている、ということです。

確かに図や写真といった右脳型のデータは有用です。百聞は一見に如かず、という言葉もあります。

が、しかし。

彼らの「言葉足らず」には本当にいらいらさせられます。よしんば文章が書かれていても、よくて事実の羅列ばかりで、書いた本人の情とか人柄とか考えとかが浮かび上がって来ない。流麗なる美辞を弄する必要はありませんが、簡潔明瞭に自分の意図を表す努力が感じられないのです。

これはもちろん学生時代に書かせられる各種レポートの弊害だと思われます。そこでは客観的事実を述べ、そこから引き出される結論を淡々と記述する形の文章を強制されます。書き手の感情の入り込む余地は皆無という能面のようなレポートを書かされた結果がそれなのでしょう。

だけど、それだけじゃああんまりだ、と思うのです。読んでくれた人のことを思うならユーモアや洒落っ気のある、クスッと微苦笑を誘うような文を認められたい。特にブログや日記ではね。

ただ、中には「ほほぅ」と思わせられる文章を書く理系出身者もいて、失礼を承知で「あまり理系の方が書く文章には思えませんが」と尋ねると、たいてい趣味で本を読んでいらっしゃいます。やっぱり文章が上手くなるには下手な細工を弄するよりも、他人の書いたものを沢山読むしかないのかなぁ、と思ったりするのですがどうでしょうか。

私のブログを読んでくださっている方には申し訳ありませんが、私は自分でこの場を文章を書く、あるいは公にコメントする「練習の場」として考えています。30過ぎたいい大人が幼稚なことをやっていると思われる向きもあるかもしれませんが、そのつもりでおつきあいいただければと思います。

日本語教室で痛恨の一言

このブログでも度々言及していますが、週に一度、金曜の夜、市の中央公民館で日本語教師のボランティアをしています。

で、先月テキストが一冊終わったところなので、この3週間ほどはそのおさらいをしているのですが、「~と思います」という文型を練習していたときのこと。私が質問し、生徒が答えるという形を取っていました。

私: 「日本人はやさしいと思いますか?」
生徒:「はい、やさしいと思います。」
私: 「日本語の勉強は面白いと思いますか?」
生徒:「はい、面白いと思います。」
私: 「私の授業は面白いと思いますか?」
生徒:「いいえ、面白いと思いません」

これにはがっかりを通り越して笑うしかありませんでした。(苦笑

まあ笑ってばかりもいられませんよね。彼女にそう思わせている事実は真摯に受け止めなければならないと思います。現に思い当たる節はあって、私はほとんど準備らしい準備もできないまま授業に臨んでしまうので、授業中彼らに少し待たせたりすることもあります。例文が思い浮かばなかったり、漢字が思い出せなかったり。特に後者は日頃パソコンでしか文章を書かない私にとってなんとかしなければならない喫緊の課題です。

その点、他の先生方はちゃんと予習なり、今日やるべきことを考えていらっしゃる。たまに他の先生が休むと私のクラスに混ぜて教えることもあるのですが、やっぱり差を感じてしまいます。経験が少ないことを言い訳にもできるのでしょうが、自分の努力不足なんだろうなぁと思ってしまいます。その結果が今日の一言、ということになるのでしょう。

もちろん、週に一度授業をしたところで、教えられることには限りがあります。理想としては、彼らが日頃から日本語習得に興味を持ち、自発的に質問などをしてくれるようになったらいいのですが、その前にまず自分がもっと努力している姿を見せなければダメですね。最近仕事が忙しいことを言い訳に、そうした努力を怠っていました。そのことに気づかせてくれた今日の一言でした。

「何を書くか」は問題ではない。「何を書かないか」が問題なんです。

ブログなんぞを書いていると「よくネタに困りませんねー」とか「毎日ネタ探してるんじゃないですか?」とかいう質問をよくされます。

まあそうして生活している面もないわけではありませんが、私にとって問題なのは表題のことです。こうしている今も書きたい、または書く価値はあると思いながらも、諸般の事情により “Publish” のボタンを押せないでデータベースに眠っている草稿が山のようにあります。

例えば、このブログでもよく言及している通り、私は消防団に入っており、当然のことながら火事場の最前線に出ることがあります。でも、火事場の状況を写真で撮ったり、実名を挙げて報道したりはしません。

なぜなら、火事の被害者は往々にして私に近いところにいる人たちだからです。彼らの心情を思えば、安易にネットに載せようという気にはなれない。

前にも書いたと思いますが「何かを表現することは誰かを傷つけることである」という自覚の元に書いているつもりです。

例えば、よく育児日記というか、我が子の成長を日記ないしブログに載せている人がいます。一見罪もない行為に思えますが実はそうではない。現に私の妹は結婚してから6年間子宝に恵まれませんでしたが、当時の彼女がそれらの育児日記を見てどう思ったかに思いを馳せないでいられるほど、私は愚かではありません。

「そんなこと言ってたら何も書けないじゃないか」って?そうなんです。それが、それこそがすなわち、このブログの更新頻度が低い理由でもあります。書けば面白いこと、賛否はともかく評判を呼びそうなネタはいっぱいあります。でも、書かれた人たちのことを思うと、そうそう迂闊には載せられない。せいぜい、私が責任を負える範囲のことを俎上に載せていないつもりです。匿名で書ける2ちゃんならまだしも、ここに書くことは少なからず私の社会生活に影響を与えずには済まないことを私は知っているからです。

問題なのは、そうした自覚も無しに公に発言している人があまりにも多い、ということです。誰があなたの野球評論やオリンピック評論を聞きたいと思うか?誰があなたの息子がすくすく成長していることに関心を持つか?というようなことを考えられたい。文章なんてひねりだそうと思えば、漢字すら知らなくても楽々と書ける時代にあって、「この情報・感情・思想・体験は書く価値があるか」ということを考えてからキーボードに向かってもそう悪い考えではないと思います。

「時間の使い方」と「自由」について

今日、あるお客様にご請求を上げ、その後雑談交じりにいろいろお話をしたのですが、その時「時間の有効利用」について話題になりました。

時間を有効的に利用するには、まず自分の行動記録をつけることから、という話にもなったのですが、何にせよ記録をつけることに関しては人一倍億劫に感じてしまう私。それでもつらつら考えるに最近のパターンというのは思いあたります。

概ね10:00頃起床。
たまに7時くらいに起きるときもありますし、昼過ぎまで寝ているときもありますが、だいたい10時頃が一番多いでしょう。起きてすぐやることは携帯の着信チェック、メールチェックです。その後、対応を考えながら、朝食。

日中(~17:00くらい)
打ち合わせ、メンテナンス、コード書き、急患対応、諸連絡、など。

18:00頃
夕食

19:00~
JC、消防、青年、日本語教室など各種ボランティア活動。

22:00~
上からの流れで、飲み(笑) 。

25:00頃
帰宅。入浴後、3階の寝床へ。この時間には居間で母が寝ているので居間にはいられません。
寝床トップ(ノートパソコン)で、メール書き、ブログ書きなど。仕事をすることもままあります。

27:00頃
就寝。その前に時間が取れれば読書。

ここに書いたのはあくまで私の記憶から見えてきただいたいのパターンで、徹夜で仕事するときもありますし、飲まないときももちろんあります。が、おおよそこんな感じで一日を過ごしています。

「自分の時間がないじゃないか」って?そんなことはないですよ、全部自分の時間だと思ってますから。経営者たる者、仕事に費やす時間を自分の時間と思わなければ失格でしょう。それに日中もネットで情報(新聞記事や旬なトピック、自分の興味あることを含む)を得たり、音楽を聞きながらコード書いたりと、いわゆる趣味と仕事をオーバーラップさせているので、そんなに苦になりません。

が、将来もし人を雇うことになったら、これではいけないだろうなぁと暗澹たる思いになることもあります。社長が仕事中にiPod耳に嵌めてるわけにはいきませんからねぇ。

それにも増して現実的に心配なのが、もし嫁さんをもらって家庭を持ったら、こうまで自由に時間を使えるか、ということ。家族との団欒も必要でしょうし、そうなったらボランティアに費やす時間を削らなければならなくなるかもしれません。同年代の知人、特に同級生たちが、結婚した途端、社交的でなくなるのも無理はないかもなぁとも思ったりします。

「休日は何をしてるんだ?」って?これがまた色々埋まってしまうものなのですよね。JCの例会および関係団体の手伝い、青年の手伝い、ウィークデーにやりきれなかった仕事、etc, etc… 正直、デートなんかしてる暇がないです。w

ただ、誤解の無いように申し上げておくと、私はそれを楽しんでやっています。まあ楽しめないとしても、少なくとも自分の意志でやっています。その点、会社や上司から命令されてサービス残業せざるを得ない社畜ども被雇用者の方に比べれば自由を満喫しているつもりです。

このブログや普段の言動からお分かりの方も多いでしょうが、私は自由であることをことの外愛しています。発言・言論の自由、行動の自由、学問の自由、職業選択の自由、タバコを吸う自由、などなど。その結果いわゆる社会規範(年上・年下の関係、親子の関係、近所づきあいの関係、顧客・サービス提供者の関係)を逸脱することもままあり、それは重々承知しています。ですが、福沢諭吉が「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言ってから、もう100年以上も経っているのですから、無条件に人にへつらうのは止めにしてもいいんじゃないか、と思います。そう言った以上、私は例えば年下にタメ口で喋られても気にしないことにします。また、鋭い方ならご明察いただけるかと思いますが、自由と平等は背反するものではなく、セットで考えて初めて成り立つものです。

あれ、書き出しからずいぶん違うところに来てしまいました。結論らしい結論も出せないままですが、もう夜も明けてしまうので、今日はこの辺で寝ることにします。おやすみなさい。

小人閑居して・・・

ここのところ仕事やらJCやらで超絶的に忙しかったのですが、こうしてブログを書いていることからもお分かりの通り、少し落ち着ける時間ができてきました。まあ普段きっちり予定立てて動いているわけでもないんで、半分自分の責任もあります。

さて、「小人閑居して不善を為す」という言葉がありますが、この「閑居」って「一人でいること(他人の目がないこと)」という意味で「暇をしている」という意味ではないんだそうです。要は「つまらない人間は人の目がないと悪いことをする」ということらしいです。

私は聖人君子からは程遠い小人の見本のような人間ですので、やっぱり暇になるとむくむくと妄想が浮かんできてしまいます。思いついたアイデアはWikiにまとめていますが、後で読み返してみると暇なときにはロクなこと考えてないですね。w

現実的なところで今のところ頭の中にあるのはこんなアイデア妄想です。

鴨川市立図書館レビューサイト

そもそも借りた本が自動でどこかにリストにあると面白くね?というところから発展しています。要は「最近借りた本」をブログに張り付けたかったのでした。しかも自動で。
前に「公の図書館では個人の貸出記録を3ヶ月(?)で破棄している」ということを聞いたことがあります。借りた人がどういう思想を持っているかを調べる材料にならないように、ということらしいんですが、その真逆を行く発想です。

で、一覧だけじゃ面白くないので、レビュー(感想)なんかもつけられるといいな、と。他の人が見て参考にもなるでしょうし。

自動化するには、インターネット利用時のパスワードをお預かりする必要があるので、その辺がアレなんですけどねー。

Twitter, Remember the Milk のクライアントを Titanium Desktop で作りたい

先日、disったとまでは言わなくても、「何が面白いんだかわからない」的発言をしたTwitter ですが、前言撤回します。知ってる人がいればそこそこ、いや、結構面白いです。普通のチャットと違って、すぐ相手から反応があるわけではありませんので、基本会話ではなく「つぶやき」になるんですが、それに慣れてしまえば、それなりのつぶやき方もあります。20日に近所の稲荷様の縁日(?)があって青年で手伝ったとき、いろいろな方面で先輩のS藤さんがやっている、しかもハマっていると聞いて「ほほぉ、Twitterもここまで普及したか」と思い直しました。ま、Twitter についてはまた別の機会に。

今まで不思議というか「なんでWeb上のサービスはWebブラウザでしか使えないんだろう」と思ってました。当たり前だろ、と言う声が聞こえそうですが、例えば郵便番号から住所を検索する(2995503 →千葉県鴨川市天津)なんてのは大抵のWebフォームでやっていることですが、これ、例えば顧客管理ソフトとか住所録ソフトで使えればかなり便利だと思うのです。悲しいかなその手のソフトはパソコンのハードディスクにあるデータを元にしていますから、「先月合併して市長村名が変わった」なんてケースに対応できません。だからデータはネット上に置き、それを必要に応じてアクセスする、というのが望ましいわけです。

で、 その手のアプリケーション開発環境といえばAdobe Airが有名ですが、ActionScript覚えなければなりません。その実JavaScriptみたいなもんなのでまあ敷居は低いっちゃ低いんですけれども、Rubyラヴな私としてはRubyでデスクトップアプリ作りたいとつねづね思っていました。ActiveScriptRuby はそれができる候補の一つで、ご好評いただいている(コメントに反応しなくてごめんなさい orz)「NHKラジオ語学番組キャプチャツール」もそれで作っていますが、悲しいかなWindowsでしか動きません。

そこへもってきてこのTitanium Desktop(前置き長っ)。Rubyはおろか PHP, Python, そしてもちろんJavaScriptなど各種LLでデスクトップアプリが作れるというスグレモノ。そして実行環境もWindows, Mac, そしてLinuxと、どんだけユニバーサルなんだって感じになっています。

画面はHTMLで記述でき、ロジックを各種言語で書くようになっているので、 Web屋がデスクトップアプリ作るにはうってつけのツールです。Twitter, RTMに限らず、Web上には便利なサービスのAPIが公開これでもかってほどあるので、いろいろ遊んでみたいと思います。

メールお預かり&IMAPで読めますよ(ウィルス、スパムフィルタ付き)サービス

地元で仕事をしていて案外多いのが「複数のパソコンで一つのメールアドレス(正確にはメールボックス)を共有したい」 というリクエスト。もちろん複数人で読む場合もありますが、宿泊施設ではメインユースのPCが使えなくなったときに予備のPCで読みたい、という需要もあります。

で、それをするにはPOP3ではなくIMAPというプロトコルが便利で、現に私も使っています。が、普通のプロバイダでIMAPに対応しているところは少なく、POPで「サーバにメールを残す」に頼らざるをえません。しかもロクにフィルタしてないので迷惑メールがバンバン入ります。

そこで思いついたのが、できれば直接転送(MXレコード変更 or .forward転送)していただき、それが不可ならPOPで現行サーバからメールを取り出し、弊社のサーバでお預かりする、というサービス。転送あるいは取り出した時点でフィルタにかけ、不要なメールを篩にかけます。付加的に、Webメールとか携帯での読み書きができるといいな、と。

真に具合のいい、すぐにもできそうなサービスですが、ただこれ全部Googleがすでにやってることなんですよね。w しかもロハで。どうやってgmailと差別化するかが課題です。

コンビニプリントサービスとQRコードを活用した地域ミニコミ誌

「そういうものは自腹で印刷しろ」という声が聞こえて来そうですが、ご存じの通り世界一小さな規模を誇る弊社には、市内の皆様に紙媒体でまとまった量の情報をご提供できるだけの資本力はありません。それに完全に紙ベースのものならすでにKamoZineでやっています。(まあKamoZineの内容は外向きのものですが)

そこで、記事のタイトル、本文冒頭(あるいは要約)、サムネイル写真を載せた紙をネットプリントなど各種コンビに印刷サービスで取り出せるようにしておき、欲しい方はコンビニで紙に印刷していただくという形をとったらどうだろうと思っています。記事全文や写真は紙上のQRコードで携帯からアクセスしていただき、より詳しい情報を得られるようにしておく。弊社は印刷にかかるコストを全く負担せずに済み 、欲しい方だけ小額の印刷代をご負担いただくだけなので、まあフェアなのでは、と。

副次的な効果としては、携帯を使える若年層が、そうでない高齢世代に内容を読んであげたりなんかすると、世代間の交流が深まっていいかもなぁなんて考えています。

またも長々と妄想をぶちまけてしまいました。orz 上に挙げたのはアイデアにすぎないので、私に代わってどなたかやっていただいても全く構いません。できれば事後報告していただけるとありがたいですが。

インド発のデフラグツール「Puran Defrag」

ゼロを発見し、子供には二桁の九九を覚えさせるというIT列強国インドから、デフラグツールが出ていたので使ってみました。(ダウンロードはこちら)

・・・と普通ならここでそのツールの性能や評価などを書くのでしょうが、私の場合は違います。

他にもデフラグツールはたくさんあるのに、なんでこれに惹かれたかというと、その名前です。

インド建国の父といえば「ガンジー」なのは子供でも知っていますが、インドのカースト制度、男尊女卑社会、貧困に真っ向から立ち向かい、国会議員に当選を果たしたものの、敢えなく凶弾に倒れた女性闘士がいました。その名が「プーラン・デヴィ」。プーランとはヒンドゥ語で「花」の意味です。

前にテレビで彼女のことが特集されており、「げっ、インドってこんな国なのか」というかなり強いネガティブな印象を受けました。実状を知ったら呑気にインドカレーなんか食っていられませんよ。

ものはついでというわけで、デフラグツールを走らせながら、市の図書館で「女盗賊プーラン 」を借りて一晩かけて読了しました。いつものことながら、この図書館、ほんとに私の読みたい本ばかり置いてくれています。

インドのカースト制度のことは学校でも習いましたし、知識として知ってはいましたが、なんせ「天は人の上に人を作らず」と公言した人がお札になってる国に住んでいるもので、なかなかその実状は知りませんでした。カーストについてご存知ない方のためにさらっと説明すると、インド固有の身分制度で、おおまかには、ブラフミン(僧侶)、クシャトリヤ(武士)、バイシャ(平民)、シュードラ(奴隷)、そして不可触民族とされるバリヤ、があります。

上に上げたのはあくまでおおまかな区切りで実際には何千もの位階があり、それよって床屋の子は床屋に、農民の子は農民にしかなれません。

プーランは、マッラというシュードラの一階級の家の子として生まれました。これ以上はないほど家は貧しく、おそらく、というのは彼女は生年を正確には知らないからなのですが、11才のときに結婚させられ、嫁ぎ先で筆舌に尽くしがたい虐待を受けます。ちなみにインドの法律では未成年(18才以下)の少女との婚姻は違法ですが、法の及ばない農村地帯ではそのようなこともまま起こっているそうです。結婚は破談になり、実家で過ごすうち、また結婚の話が持ち込まれます。が、そこでは妾が幅を効かせるようになり、正妻のプーランはネグレクトされます。とにかく、彼女は不幸になるために結婚させられるといってもいいくらいなのですが、そのうち、ひょんなはずみでダコイット(盗賊)に加わります。率いていたリーダーがやはりマッラ階級のヴィクラムというやつなのですが、これがすこぶるいい男。プーランに対してもやさしく接し、仲間からの信頼も厚い。男の私でも惚れそうな、度胸とやさしさを兼ね備えた義侠の徒なんですな。となるとプーランとの関係も・・・、とこれ以上は本を読んでください。w

しかし、「ひっどい国だ」なんて言って色々調べていたら、なんと我が日本もUNICEFの見解では「カースト」の国なんだそうです。部落差別問題とかのことかと思いましたが、意外に身近なことかもしれないと思い直しました。例えば政治家や芸能人は二世三世が当たり前ですし、一部の宗教家は悪く言えばその地位を血族で独占しています。いわゆる「世襲」ってやつですね。インドのように下位者を差別する意味でのネガティブなカーストはないかもしれませんが、比較的社会的上位者にはポジティブなカーストのようなものはあるのかもしれません。

ちょっと遠回りしましたが、結局冒頭のデフラグツールは、社長さんの名前がプーラン・チャンド・グプタさん(男性)の名にちなんだだけで、今までさんざん話題にしてきたプーラン・デヴィに敬意を込めて、というわけではないようです。なんだよ、それってなオチがついた所で今日のブログは終わりです。おやすみなさい。

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