Author Archives: sino

久しぶりに消防ネタです。

まず最初に謝っておきます。最近、手入れすっぽかしてばかりいてごめんなさい。忙しさにかまけてついつい忘れてしまい、気づいたら「あ、今日は手入れだった!」って後になって思い出すんですが、後の祭りとはこのことですね。カレンダーにも印をつけてありますし、愛するママにも気づいたらいってもらうようにもしているんですが、なかなか・・・。

と、言い訳はここまでにして、今日たまたま消防のメンバーと顔を合わせたのですが、そのときM晴さんに「最近ブログに消防のこと書いてねぇじゃねぇか」と指摘を受けたので、書かせていただきます。

そもそもなんで顔を合わせたかというと、S市さんに頼まれていた書類ができあがったので、見てもらおうと思い、連絡したところ、Fよしで飲んでいるとのことだったので、うかがってお届けしたのが始まりです。

なんでも今日の午前11時(!)からハシゴ交じりで飲んでいるとのことで、皆さんいい加減酒臭くなってました。俺も飲みたかったんですが、車で来てたし、H樹が出してくれた1杯だけの貴重なウーロン茶で我慢しました。

で、しばらくヤヘェやってたら、話題がM晴さんに8枚も貸しているDVDのことに流れてきました。誤解のないように言っておくと、そのDVDは、男女が愛を交わす過程を忠実に描写した、興醒めな画像加工処理など加えられていない、淳風美俗の香り漂う極めて高尚な内容の作品でして、決して猥褻なものではないのですが、中にはそう捉える方もいるかもしれません。同期で年下のH樹がぜひ見たいと言い出したのをきっかけに、その場にいた、S市さん、Sげさん、M晴さん全員に俺も俺もとせがまれ、一旦また帰宅して取りに行くことになりました。独身は俺だけだったのですが、見たいDVDも見れなくなるなんて、結婚するとずいぶん不自由になるもんだなぁと思わずにはいられませんでしたね。

シャッフルするとかしないとか、誰が何枚借りるだとか、俺のはハズレに違いないとか、ひとしきりすったもんだがあった後、年功序列と恥じらいと図々しさの絶妙なバランスの結果、M晴さん8枚、S市さん3枚、Sげさん3枚、H樹3枚ということで折り合いがつきました。また、新たな試みとして、みんなで鑑賞後の評価を残していこうということになりました。幸いディスクの表に空白があるものばかりだったので、マジックで○×△を書くことになりました。

その後、バーミヤンに行ってラーメンでシめようということになり、もちろん飲んでいない私が運転することになりました。「どこまで世話焼かせるんだ!たいがいにしろ!」という言葉はぐっと飲み込み、ディズニーランドのスタッフそこのけの笑顔で送り届けさせていただきました。もちろん帰りもお連れしなくてはいけないので、みなさんがおいしそうにラーメン食べている中、私一人だけちびたアイスクリームを舐め、苦いコーヒーをすすっていたわけですが、鬼のような先輩にアゴで使われている自分のことが可哀想で可哀想で、あふれ出す涙を周りに気づかれないようにそっと拭いていました。ああ全くなんて連中なんでしょうか。ひどいと思いませんか、皆さん。

・・・とまあ、冗談まじりに書きましたが、久しぶりに消防の仲間に会って話をすると、「消防っておもしれぇなぁ」と心の底から思いますね。みんな広い心の持ち主ばかりですし、まあ確かに基本的には年功序列で縦社会かもしれませんが、シャレのわかる方たちばかりなので、一緒にいても楽しいです。私なんかはかなり甘えさせていただいてます。

近いうちに忘年会もあるとのことなので、ぜひ参加しようと思います。ああ、その前に手入れ忘れないようにしなきゃ。(汗

印刷屋さんのジレンマ

今日、時間があったので会議所で来年担当する予定の例会のチラシをパソコンで作っていたのですが、その過程で現代の印刷屋さんが抱えている(であろう)ジレンマのようなものに気づきました。

どこの印刷屋さんでも、当然ですがカラー印刷よりモノクロの方が値段が安いですよね。昔はテレビだってモノクロよりもカラーの方が高かったですし、まあ「モノクロよりカラーの方が高い」というのはごくごく一般的な感覚かと思います。

が、印刷屋さんの仕事というのは紙を印刷機に通すことだけではありません。顧客から文章や写真、キャッチーコピーや、はたまた「要望」という極めてソフトウェア性の高い材料を元に、紙面をデザイン&レイアウトし、印刷にかけるわけです。

もしかしたら「デザイン料」という項目を請求書に載せているところもあるのかもしれませんが、私の知るかぎり、普通は「A4表裏◯色刷×何枚」ということで請求が来ます。もちろん、印刷する限りデザインをする人はいるわけで、その人が働いた分は「A4表裏◯色刷×何枚」の中に入っているのでしょう。

今の時代、印刷作業そのものはほとんど機械化されて、作業あたりにかかる人的コストはどんどん下がっていることは容易に想像できます。半面、人間の、特に頭を使わなければならない仕事の単価は高くなっていく傾向にあります。

さて、私の気づいたジレンマが発生するのはここです。つまり、「印刷物が完成するまでにかかるコストを人件費も含めて考えると、実はカラーよりモノクロの方が高くつくのではないか」ということです。

その原因は「モノクロよりもカラーの方が表現が容易である」という、考えてみれば当たり前のことにあります。水彩画なら小学生でも描けますが、水墨画となると大人でもなかなか難しいですよね。私も実際に自分でデザインしてみて、「これを単色で作れと言われてなくてよかった」と思ったくらいです。きっと単色刷の依頼を受けたデザイナーさんは、カラーのときよりも頭を使って仕事をしているはずです。

まあ、そこはそれ、プロはそれなりのノウハウを持っているのかもしれませんが、素人の私が察するに「カラーよりモノクロの方が安く見られている」という事実は、業者さんにしてみればかなりのストレスなのではないかと思います。

そういう状況に比べれば、たとえ悪名高き「人月」という形であっても「頭を使った分を請求できる」ソフトウェア業界はまだマシなのかな、とも思えます。まさかコンパイラの吐いたバイナリの大きさによって請求額を決めているソフトウェアハウスはないでしょう。また、ソースコードの行数で請求を立てるという話も聞いたことがありません。普通は、何人のプログラマが何日働くので、これだけいただきますよ、という見積りを立て、その見積りの中で仕事をするわけですが、これとて想定以上に難しいことが後から分かることはままありますし、その逆も然り。見積りをしっかり立てられるようになったら、その人はそれだけで一流と名乗る資格があります。

もっともソフトウェアの世界にしても、昨日まで非常に困難だったことが、今日になって簡単に、あるいは圧倒的に安いコストでできるようになることがあります。典型的な例は各種のオープンソースソフトウェアで、他の人の成果を無償で自由に利用して構わないのですから、これほど楽なことはありません。もっとも利用するには、知識や経験が不要ということはないのですが、一から自分で作る労苦とは比べ物になりません。

私は根が不精なので、自分で作る前に、似たことをしている人がいないかをまずインターネットで調べます。もしそれが公開されていればありがたく利用し、そうでなければ最小限の労力で済むような方策を立てます。

そういう意味でインターネットというメディアは、まず誰よりもソフトウェア開発者にとって福音でありました。「車輪の再発明を防ぐ」という意味でも、人類の福祉に貢献しているとさえ言えるでしょう。

かくしてプログラマのストレスは減り、ソフトウェアは安くなり、顧客の満足度は向上するという誠に理想的な循環が生まれています・・・と言えたらいいのですが、世の中そう甘いものではなく、まあ現場では現場なりの苦労はあります。それと報酬を秤にかけて自分を納得させることのできる人だけが、職業としてやっていける世界なのだろうな、と思っています。

天津(鴨川含む)と国の銃士たち

アレクサンドル・デュマの名作「三銃士」を先日読み終えました。

いやー面白かった。久しく古典を読んでいなかったので、その意味でも新鮮ではありました。NHKの人形劇はきっと子供向けにアレンジされているのでしょうが、原作は十分大人でも満足できます。というより、むしろ子供向けではないです。

で、思わずにはいられませんでしたね、「俺は果たしてダルタニャンになれるだろうか」と。

少し解説しておくと、「銃士」というのは当時のフランス王のための近衛兵のことで、普及しつつあった銃を使うのでこの名で呼ばれました。ダルタニャンはその銃士の部隊、銃士隊に入隊することを夢見てガスコーニュからはるばるパリまで出張ってきた、まだ子供とも言えるくらいの若者で、アトス、ポルトス、アラミスの先輩三銃士と邂逅し、数々の困難を痛快に乗り越えていく、というのが大筋です。時代背景としては、フランス革命前夜、世界が中世から近代へ移り変わるちょうどその境目のころになります。

それで思ったわけです、「果たして俺と死地を共にしてくれるほどの仲間はあるだろうか」と。

でも、すぐに思い直しました。「俺のために死ぬ馬鹿はいないだろうが、銃士が王や王妃やトレヴィル殿に捧げているに匹敵する愛を、地域に対して抱いている現代版の銃士ならいくらでもいるではないか」と。

一朝火が出れば、死ぬ気で火事場に飛び込んでいく消防団、自らの理想のために労苦を厭わず社会貢献に邁進している青年会議所、地域の催しごとのために仕事を振ってやりとげる青年団、その他、その他・・・。

義ですね、漢(おとこ)たちの世界ですねぇ。気の効かない私ごときが何をしているわけでもありませんが、末席に加えられてその勇姿を目の当たりにするにつけ、いつも惚れさせられてます。

先日、消防の手入れをサボって、東京の議員会館というところに行ってきました。議員会館というのは、あの国会議員の先生方が政務を行う事務所が集まっている建物のことです。言うまでもなく私一人で乗り込んで行ったわけではありませんで、齋藤元県議に連れられて、天津小湊地区への光ファイバー誘致活動のご説明とご協力を請うためにうかがったのですが、いろいろ得ることの多い一日でありました。

いやはや、びっくりましたねぇ。何が驚いたといって、会う人会う人の頭のよさそうなこと。実際ある議員先生の秘書の方にもお会いしてお話したのですが、ああもやすやすとこちらの言いたいことが伝わるという経験は久しく、というより初めてだったかもしれません。田舎インテリを気取っていた自分が恥ずかしくなりましたよ。世の中にはやはり上がいるものです。

頭の切れもさることながら、彼らの気概というか、天下国家のために働いているんだという信念のようなものが、話をしていてひしひしと伝わってきました。それに比べて自分はなんと卑小な存在なのだろう、と。

天津には天津の銃士がいて、国には国の銃士がいる。そうして世の中が動いていることを知って、社会というものにより親しみを感じた一日でした。

「ゲーム」にハマっている青少年諸君に物申す

悲しいことに俺は来年34歳になる、世間的には正真正銘のオッサンだ。君たちの仲間として発言できないことが先ずもって悲しいが、敢えて上から目線でがっつり言わせていただく。

ゲームにある程度ハマるのもいいと思う。友達もやってるだろうし、一人だけやってないというのは寂しいだろう。俺だって小学校の頃はファミコンに熱中して、それが原因で眼鏡をかけるまでになった。それから、沢山本も読んだ。だから虚構の世界に心踊らせる楽しみがわからないわけでもない。

けど、ゲームに飽きたらちょっとまわりを見渡して欲しい。コンピュータを使えば、こんなの簡単にできるのに、ってことが見当たらないかい?なんで現実の世界はこうなっていないんだろう?と思うことってないかい?それだけゲーム機に熱中しる君たちだもの、何か一つでも気づくことがあってもいいと俺は思うんだ。

大人になると自分でお金を稼がなきゃいけなくなるけど、それは全て「現実の問題にどう対処して結果を出したか」ってことの評価で決まる。1時間かけて10しかできなかったことを、君のやりかたなら100できるようになったとしたら、それはもう立派な仕事だ。今までなら事務員を雇って対処させなければならなかったことをコンピュータにやらせるようにできれば、それもそれで立派な仕事だ。

ラビリンスの奥深くに眠るドラゴンを倒すためのアイテムを入手することに血筋を上げるのもいいだろう。でも、お母さんやお父さんが日々追われている仕事をいくらか楽にしてあげることができたら、もっと素晴らしいことじゃないかな。自分の親だけじゃなく、世の中にゴマンとある非能率的な部分を見つけて、勇者の剣を振るうように問題をズバっと解決できたら、君はもう現実世界のヒーローだ。

俺は現実の世界で起きている問題の解決手段を考えることで幾ばくかのお金を稼いでいるけど、これって最高に気持ちいいぜ。なんたって顧客には感謝されるし、お金は払ってもらえるし、誰にもできることじゃないから、たいていのことは頼まれる。頼まれた以上は何らかの解決手段をひねり出さなきゃいけないけど、まあそれはその時になったら考えればいいことだ。

ゲームの架空の戦闘よりも、現実での戦いの方がスリルも満足度も味わえるよ、きっと。

だから、そんなつまらない世界にハマってないで、社会に出たときに振るえるように、今から頭の中で大剣を研いでおけ。勉強という名の砥石はそのためにあるんだからさ。

本当に大切なのは「置換機能」や「グラフ機能」じゃないんだ

今日、所さんの笑ってこらえてという番組にMOS(Microsoft Office Specialist)の世界大会に出場した慶応法学部の女性が出場していました。MOSというのはマイクロソフト公認の、ワード・エクセル検定と考えていただければいいでしょう。それらのソフトをどれだけ使いこなせるかを図る試験です。

でね、前に何かの足しになるかと思って問題集を本屋で立ち読みしたことがあるんですが、あまりのレベルの低さに正直めまいがしましたよ。SEが「MOS持ってます」って胸張るのは恥だと思ったので受験しないことにしました。

最近はそんなことも少なくなりましたが、一昔前までブラインドタッチでキーボードを打っていると「すげー」って目線で見られたものです。エクセルでグラフなど作ろうものならネ申でしたね。

ただ、その頃から思ってるんですが、本当に大切なのはキーボードをいかに早く打てるか、とか、データをグラフにまとめるか、ではなく、いかに人をうならせる文章を書けるか、グラフなんかにしなくても勘でデータを読み取れるか、じゃないかなぁ、と。

ネットにある文章をコピペして資料にするなんてのは、人間として「私は思考することを止めます」と宣言しているようなもので、一種の知的自殺だと思うんです。そりゃ見栄えはいいかもしれません。自分には到底真似できないと思うからそうするのかもしれません。でも、そこに自分がいなければ、他の誰でもないあなたがいなければ、何の意味もない。

Wikipediaによると

著作権(ちょさくけん)とは、言語、音楽、絵画、建築、図形、映画、写真、コンピュータプログラムなどの表現形式によって自らの思想・感情を創作的に表現した者に認められる、それらの創作物の利用を支配することを目的とする権利をいう。

だそうです。「自らの思想・感情を創作的に表現した」という部分にお目を止められたい。

翻って言えば、

  • 単なる事実の列挙
  • 思想・感情を表現していても、創作的と認められない場合

には著作権は発生しない、とも読めます。実際、テレビで知ったことですが、料理のレシピに著作権はないんだそうです。あの有名一流シェフが10年かかって考え出したレシピをパクって本にしても、お咎めなしってことです。

私が十年一日の如く青年の主張みたいなことを書いているのも一にかかって「どうせ書くなら著作権の発生するような文章を書きたい」と思うからです。毎回毎回これでもかってくらい「思想・感情」を表現していますし、まあそれが「創作的」かどうかは意見の分かれるところでしょうけれども、すくなくとも

今日◯◯に行った。△△に会った。一緒に飲んだ。気持ちよく酔った。明日からもがんばるぞ。

と、蓮舫議員にかかったらばっさり仕分けされそうなネット資源の無駄使いはしていないつもりです。

だいぶ脱線しちゃいましたが、要は、「文章は文字列の集合ではなく、ましてや情報という名の味も素っ気もない無味無臭のソフトウェアでもなく、書き手の魂が込められた、ある意味ではその人自身の分身のような存在」なのだということを申し上げたい。

それだけの覚悟をした上で、皆さんブログを書いていますか?メールを書いていますか?恋するあの子にラブレターを書いていますか?

著作権(ちょさくけん)とは、言語音楽絵画建築図形映画写真コンピュータプログラムなどの表現形式によって自らの思想・感情を創作的に表現した者に認められる、それらの創作物の利用を支配することを目的とする権利をいう。

弊社発 地域SNSの立ち上げが遅れている理由

ことあるごとに実生活のエクスキューズを垂れ流している本ブログですが、関係者各位には大変お世話になっております、地域SNS「Zeego.org」の正式稼働が遅れている事情などをご説明したいと思います。

SNSじゃないよね

学校関係者の方からいろいろ機能の削除要請を受けておりまして

  • 日記機能
  • コメント機能
  • コミュニティ管理者だけが一斉配信できるように

などなど、機能追加ではなく「機能削除」しなければならないという点がまず一つ。そして、そうした要請に応えてできたものがはたしてSNSと呼べるのか、という内部的な葛藤があります。実のところ、私も日記機能なんかいらんよな、とは思っていて、もっと面白いアプリが載せられるといいと思っております。例えば手渡しすることが前提のオークションとか、オークションにせずともフリーマーケットみたいなものがあれば、バザーを通年できることになりますし、エコロジーかつエコノミー。

ただ、そうしたアプリを自由度の高い形で載せるには土台の方もかなり手をいれなくてはならなくて、それならイチから作り直した方がいいんじゃないかと模索しているところです。

地元の学校でも新型インフルエンザでバザーが中止になったり、休学になっていたりするので、今が一番求められているところではありますが、より受け入れられやすい形にすべく、頭をひねっています。

それでも登録しない人対策

人間というのは誠に不思議なもので、相手が人間なら個人情報を教えるのに何の抵抗がなくとも、「お手持ちの携帯から入力してください」となったとたん、抵抗を示す傾向があるようです。私個人に教えるのも、私が作ったシステムに入力するのも結局は同じ事なんですが。

そこに働いている心理というのはどういうものなんだろうと考え続けています。そして、そういう人にも抵抗なく登録してもらうにはどうすればいいのだろうと。既存SNSは自己登録が当たり前ですが、代理登録できるようにするといいのかもなーと思っています。

広告掲載に代わる資金調達

最初は広告メールを配信することで、広告主から運営資金を調達することを考えていました。でも、それにはある程度登録者数が集まらないと説得力ないですし、携帯電話では広告の表現力にも限りがあります。

よって、もっと直接的で受益者負担的な資金調達方法を模索しています。

幸いなことに田舎の時間は可塑性を持っているので、ある程度遅れても看過いただけるのですが、さすがにそろそろ何らかの形にしなくてはいけないと思っております。もしかしたら既に遅いのかも。(汗

最近読んだ/読みかけの本

話を聞かない男、地図が読めない女

以前のエントリでも取り上げた本です。市の図書館で借りました。真偽のほどは別にしても、なかなか示唆に富む内容でした。ただ、私の場合は結構「女性脳」なのかもしれないですね。50の設問があるテストが載っているのですが、それはすっ飛ばしました。やってから返却すればよかった。

三銃士(上・中・下)

NHKで人形劇が始まったようなので、いい機会と思って購入。基本的にフランス嫌いなもので、アレクサンドル・デュマの作品を読むのもこれが初めてだったりします。

いや、これが滅法面白い。子供向けの絵本の原作が、結構大人でも楽しめる(ガリバー旅行記もそうでした)のはよくあるパターンですが、さすが文豪として名高いデュマだけあります。フランス文学も悪くないかも。

かのセルバンテスの名作「ドン・キホーテ」を意識して書かれていることは明白ですね。フランス中世末期の時事風俗が窺えるのも勉強になります。

笑うカイチュウ

これも図書館で借りたんですが、こんな本まで図書館にあるとは・・・。前に目黒寄生虫館の亀谷 了先生の「おはよう奇声中さん」という本を読んで以来、サナダムシ、カイチュウの類には興味を持っています。幸い、私は花粉症ではないのですが、花粉症でお悩みの方はぜひお腹に一匹虫を飼うことをお勧めします。

オペレーティングシステム

情報処理学科の学生向けテキスト。ベイシア併設のスバル書店で購入しました。内容としてはいささか旧聞に属するかもしれませんが、教科書としてならありなのかな。自分の知識が間違っていないか、チェックするために読んでます。

その「エコ常識」が環境を破壊する

もはや商業化されつくしてしまった感のある「エコ」ですが、リサイクルすることが返って環境負荷を高めるかもしれない、というお話。まだ中身は読んでいませんが、同級生のK田君がJCの広報誌で取り上げていたので読んでみようと思い、購入しました。

それにしてもわからないのが、ペットボトルのキャップを集めることがなぜ環境活動につながるのか、です。キャップよりも本体のほうが効果大きいんじゃないのかと思うのですが・・・。

M.H.S. 始動

M.H.S. とは Mission Hoarse Shooting の略です。「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」の成語から。何が馬で何が将かはご想像におまかせします。

ところで、この「将を射んと・・・」と言う言葉ですが、てっきり孫子の兵法か何かに書かれているものだとばかり思っていました。ところが元々の出所を調べてみると漢詩で有名な杜甫なんですね。杜甫にしては雅風に欠ける血なまぐさいことを言っているなあと思ってもう少し調べてみると、どうも人口に膾炙している意味ともともとの文脈は違うらしいことが分かりました。

普通、この言葉は「最終的な目標を遂げるためには周囲から攻めかかるべし」という意味で使われます。分かりやすい例としては、ガールフレンドを作ろうとおもったらその友達から仲良くなれ、というのがそれですね。

でも、杜甫の五言律詩「前出塞」にはこうあります。

挽弓當挽強  弓を挽かば當に強きを挽くべし
用箭當用長  箭を用ひなば當に長きを用ふべし
射人先射馬  人を射らば先づ馬を射るべし
擒賊先擒王  賊を擒にせんとすれば先づ王を擒にすべし
殺人亦有限  人を殺すには亦限り有り
列國自有疆  國を列(た)つるには自づから疆有り
苟能製侵陵  苟くも能く侵陵を製せば
豈在多殺傷  豈に多く殺傷するに在らんや

【現代語訳】
弓を引こうとすれば強い弓を引け、矢を射ようとすれば長い矢を射よ、人を射ようとすればまず馬を射よ、敵を捕虜にしようとすればまず王を捕虜にせよ

人を殺すにも限りがある、国を立てるには国境というものがある、いやしくも敵の侵略を防げれば、多くの殺傷をするには及ばない

つまり、「相手を倒すのが目的ならば、馬を倒して戦闘能力を奪いさえすればいいではないか。いたづらに人間を殺すべきではない」というのが杜甫の言いたかったことのようです。これなら、文化人の名にふさわしい、誠に人文的とも言える言動です。

孫子も、戦をするにあたって最上の策は「戦わずして勝つ」ことだと言っています。無闇に兵を起こして戦をすれば、よしんば勝ったとしても、田地は荒れ、民は疲弊し、被征服民の恨みを買い、国力に少なからず悪い影響を与えることは免れない。であるから、圧倒的な優位を見せつけ、相手に争う気を起こさせないことが最良の策である、ということです。

喜ばしいことに、このところ宇宙開発の面で日本のロケットミッションが成功を収めつづけています。かなり質量のある宇宙ステーション補給機(HTV)の輸送も先日、無事成功しました。

片や、国内では原子力発電が営々と、当たり前のように運用されています。素人考えですが、原子力エネルギーを少しずつ調節しながら引き出す技術は、一挙に爆発させるよりも技術的には難しいことなのではないでしょうか。

見方によっては、日本は軍事転用可能な核開発技術をすでに手に入れているのかもしれません。そして、それをあくまで平和的に利用していることを世界に訴えるのは、孫子の言う所の「戦わずして勝つ」ことになり、国民の一人として大変誇らしい気分になります。

私がブログを書いている理由

前にも似たようなことを書いた気がするのですが、大事なことなので、また書かせていただきます。

起業するとき、当然ですが、IT企業としてやっていくからには自社のホームページがなければ嘘だと思いました。ただ、会社概要と社長からのご挨拶、会社の地図だけが載っているだけのものでは、あまりにもつまらない。そこで、当時流行っていたブログというものに目をつけたわけですが、果たして何を書いたらいいのか、書いたところで読んでくれる人がいるのか、甚だ心許ないものがありました。

そんなときある本(書名失念)で「ブログはあなたのファンを作るためのツールです」という旨のことが書かれていたのを読んで、「なるほど!」と思いました。この一言を知っただけでもその本を買った価値がある、と。

幸い、弊社は社長一人でやっている会社ですから、私が恥をかく覚悟さえ決めれば部下に迷惑をかけるわけでもありませんし、そもそもこの手の仕事というのは一体何をしているのか非常に分かりにくい。そこのところを取り上げていけば、面白がって読んでくれる人もいるかもしれない、と考えました。だいたいが、こんな田舎でITで食っていこうというスタンス自体ユニークなはずです。

というわけで、半ば仕事のうちと思って書き始めたわけですが、さらに意外だったのは地元で読んでくれている人が結構いたということです。それなら地元のネタを取り上げれば喜んでくれるだろうというわけで、仕事のことだけでなく青年、消防のことなども書くようになりました。

今でこそ「ビジネスブログ」「社長ブログ」が当たり前のように言われていますけれども、私が始めた頃はブログというとプライベートな日記をネットで匿名公開しているだけの、誰が書いたかわからない、他人が読んでも正直あまり面白くないものが主流でした。ランチブログなんてネット資源の無駄だと今でも思っています。

長々と前置きをしましたが(え、前置きなのかよw)、今日、NHKラジオ語学番組キャプチャツールをお使いいただいている方からお便りをいただきまして、私信を公開するのは失礼にあたるとは重々承知しながら、ここにご紹介させていただきます。

高梨 様 へ

高梨様は私が尊敬すべき方の中のお1人です。
お会いした事もございませんし、これからお会いすることも多分ないとも思いますが、貴兄のホームページを拝見してその人となりを好く伺う事が出来るからです。

なんだか引用してから自分が恥ずかしくなるくらいのお褒めの言葉ですが(笑)、ご注意いただきたいのは「ホームページを拝見してその人となりを・・・」とおっしゃっていただいていることです。そう、私がブログを書いているのは私自身および弊社のことをよく知っていただくために他なりません。その評価が肯定的なものになるか否定的なものになるかは場合や読まれた方によってもちろん異なるでしょうけれども、ひとまずは自分の意図するところは達成されているのかな、とこのお便りから判断することができました。

自分の考えていることを明快な文章で表現するのは、最初のうちは必ずしも簡単ではありませんが、やってみるだけの価値は十分あると思います。ブログを始めたけれども何を書いたらいいかわからない、という方の参考になればと思い、書かせていただきました。

「地図が読めない女」は本当だった・・・。orz

流行に乗り遅れるのが大好きな私は、「ベストセラー」として宣伝されている本をめったに読みません。流行から何年か経って、本屋の在庫から切れかける頃合いを見計らって読むことにしています。

「話を聞かない男 地図を読めない女」という本が何年も前に流行りましたが、最近、その通りかもしれないと思わされる出来事に出くわしたので、書いてみたいと思います。

このブログでも何回も言及していますが、週に一回、中央公民館で日本語を教えています。で、今私が受け持っているクラス(といっても4人ほど)は生徒がたまたま女性ばかりです。

先週の金曜のこと、「~と、○○になります」と言う文型を教えていました。例えば「このボタンを押すとジュースが出ます」「夏が来ると、暑くなります」「その交差点を右に曲がると、銀行があります。」というような文を教えるわけです。最後の例は、地図を使えば簡単に例文ができると思ったので、単純な地図を描いて、「○○はどこにありますか?」と尋ね、その答えを言わせるようにしました。

ところが、ところが。

私の生徒たちは、驚くなかれ、その地図をほとんど「読めない」のです。私が提示したのは、真ん中に十字路があって、その周囲に建物を配置しただけの、単純極まりないものなのですが、それでも彼女たちは地図の解読に四苦八苦し、地図の描かれた紙を自分が進む方に合わせて回して初めて「その交差点を右に曲がると、左にスーパーがあります」と答えてくれるのでした。いやぁ、その難儀のしかたといったら見ていて滑稽なくらいでした。言っておきますが、彼女たちは日本語の「右」と「左」を十分区別できますし、祖国では普通の教育を受け、あまつさえ「学習委員」という日本でいう学級委員長のようなこともしていたという優秀な頭脳の持ち主ばかりです。

そんな彼女たちにあってこの体たらくは何なのか、と思わずにはいられませんでした。

そこで、思い当たったのが冒頭の「話を聞かない男 地図を読めない女」です。これ、前半はともかくとして、後半は嘘だと思っていました。女性が地図を読めないのなら、どんなに精度のいい、わかりやすい地図を作っても人類の50%にしか貢献できないことになります。そんな馬鹿な話があるわけがない、と。

私はほとんど病的な方向音痴ですが、地図は読めます。というより、方向音痴になったそもそもの原因が、地図があればどこに行っても迷うことはない、と人生の早い段階で悟ってしまったことにあります。それ以降は積極的に道を覚えることはしなくなり、つまり、地図が読み方を覚えてしまったがために、方向音痴になったわけです。そんな私にとってGoogleケータイが福音なのは言うまでもありません。

まあ私の話はどうでもいいとして、実際の話、女性にエスコートされてデートしたことなんて何回もありますし、女性の方が方向感覚は鋭いのかもなー、くらいに思っていました。そんな彼女たちが「地図が読めない」わけがない、と。

まあもちろん「私は読めるわよ!」と憤慨されている方もいるかもしれません。そういう人が実際にいることは百も承知です。ですが、思い起こしてみると、私の知り合いの女性のうち「地図を読めている」と断言できる人は驚くほど少ないのです。

さきほど「エスコートされて」と書きましたが、その場合、たいていは彼女たちの生活圏内だったり、遊び場だったり、職場に近かったり、いずれにせよ、よく見知っているテリトリーになります。「どこそこに行ったことがないから今度行きましょう」というわけでは決してありません。そして、女性が見知らぬ土地を訪れるときは、必ずといっていいほどガイドを雇うなりツアーに参加するなどして、絶対に道に迷わない算段をしてから出かけるのです。見知らぬ土地を一人で逍遥してみたい、と言う女性はドラマの中には出てくるかもしれませんが、現実にはちょっといそうにありません。

嘘だと思うなら、身近な女性に最寄りの駅から自宅までの地図を描かせてみてください。きっと驚くと思いますよ。


ところで、その「話を聞かない男 地図が読めない女」という本ですが、まさか市の図書館にあるとは思わず、本屋で探して見ましたが、見当たりませんでした。が、ネットで検索してみると図書館にきちんと蔵書されているではありませんか。中身を読んでいないので断言はできませんが、タイトルから推してどこぞのフェミニストなら焚書目録のトップにあげたい本なのではないでしょうかね。その点で、市立図書館の蔵書ポリシーは誠に大衆迎合的というか、ニーズによく応えているというか、いずれにせよ市民の感覚と離れておらず、大変よろしいと思います。

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